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アメリカ横断 トレーニング


 アメリカ横断 12日目


アメリカ横断 第2ステージ
 

「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」第1ステージ北海道+第2ステージ東北~関東
               (日本縦断ランニングその1)
                      高繁勝彦

          

 

 6月9日早朝、JR稚内駅前をスタート。二度目の日本縦断ランニングの旅が始まった。

 昨年アメリカ横断ランニングの旅で使ったバギー(ジョギング用三輪ベビーカー)MUSASHI号が今回も旅のパートナー。

二年前は、北海道宗谷岬から沖縄県波照間島まで日本海・東シナ海沿岸を走る、文字通り最北端から最南端までの縦断であったが、今回は北海道稚内から九州鹿児島まで、オホーツク海と太平洋沿岸を走るルート。その第1ステージが北海道。

 6月5日に話はさかのぼる。大阪ナンバからバスで舞鶴フェリーターミナルへ。小樽行のフェリーは二年前に利用したのと同じ新日本海フェリー。約20時間の乗船で小樽へ。小樽で一泊、バスで翌日札幌へ。札幌でも一泊。札幌から稚内へもやはりバスの旅…6時間はあっという間だった。

 2年前に走ったルートも一部通っていたので風景を眺めている内に稚内の町へ。道北は気候が大阪辺りと比べて一か月以上遅れているかのように思われた。日中も15度程度しかないのは本州太平洋岸ではまだ早春の気候。

 稚内から日本最北端宗谷岬、三度目の訪問。風が冷たく、空も海も灰色に見える。二年前はこの地から日本縦断をスタートしたのだった。まさに原野と呼ぶべき北の大地。店も町も集落もないエリアが延々と何十キロも続く。人も車も見かけることがほとんどない土地を一人黙々と走っている。時折、シカやキツネが道路わきで姿を見せるだけで、生き物の気配はない。

「熊出没注意」の看板にはクマが目撃された日時が記されている。つい数週間前にクマが出てきたエリアもそそくさと走り去っていく。

 キャンプをするには寒すぎることもあって、たいてい安い旅館や民宿に泊まっていたが、どこもかしこもインターネットが使えない。自分が持っていたWi-Fiルーターもネットワーク圏外が何日も続いた。ツイッターやfacebookにも書き込みができず、ブログも更新できない状態で、心配してくれていた仲間から電話がかかってきたりもした。

 ある古い旅館ではまだダイヤル電話が使われていたり、テレビもチャンネルをガチャガチャ回すタイプのものがあったり…。

「インターネット?聞いたことはある…。うちにはパソコンもないよ」と宿の女将さん。

 デジタルツールといえば、最近携帯電話を使い始めたという宿の主人もいた。

 オホーツク沿岸は寒流の影響でこの時期は天気もすぐれず、低温注意報がずっと出ていたようだ。釧路では6月に氷点下を記録した日もあった。

 台風が接近していた日、たどり着いた町に宿がなく、やむなく雨の中でのキャンプ。設営場所をあやまったか、テントの下は水浸し、風をまともに受けてフライシートがあおられテントは吹っ飛ばされそうになる。しまいにはテントの中にまで浸水。夜中3時ごろ、テントを撤収。近くの屋根のある建物の中に避難して夜明けを待った。

 川や湖、山、海…何もかもが北海道の自然が育んできたもの。そんな中で自分自身も汚れない心で走ることができそうな気がした。

 知床半島を横切るルートでは57キロ何もなし。標高490mの根北峠を越えた。根室海峡を経て、オホーツク海から太平洋へ。

 その後、晴天が続き、キャンプでテントを張って心地よい眠りについた夜もあった。インターネットは主要都市周辺でしか使えず、ブログの更新も遅れることばかり。デジタルに依存しない日々もある意味自分にとってはよかったのかも知れないが…。

 何よりも旅に出てありがたいのは人との出会い。徒歩旅行者もサイクリストもライダーも、出会ったのは皆60歳以上の方が大半。中には仕事を辞めて旅に出てきた若者もいたけれど、高齢者のパワーは健在だ。学生の夏休みが始まる前の時期だったせいもあるのかも知れない。

 ある宿では、女将さんと旦那さんが大いに歓迎してくれた。素泊まりだったのに食事も出してくれたし、二連泊しようと申し出たら部屋が満室だったため物置の部屋の荷物を片付け、そうじをして自分に部屋を用意してくれた。

 次の日に通過予定の町で、女将さんの娘さん一家が住まわれているということで、ぜひ訪ねるようにと女将さん。ありがたいことにそちらでも手厚いもてなしを受けることになった。

 走っている最中に車が停まり、缶コーヒーを差し入れてくれたおじさんがいたり、わざわざ走っている僕の応援をするためにカブに乗って札幌からえりも岬辺りまで7時間かけて200キロあまり走ってきてくれたランナーがいたり…。今回も旅に出てから実際に出会った人もたくさんいるし、ツイッターやfacebook上でもフォローされたりお友達になったりした人たちがいっぱいいる。

 世の中には、姑息でずるい人もいるのかも知れないけれど、実は、この世界はいい人であふれているのだ。旅に出てみればそのことがよく分かる。

 

  

 

 第2ステージは東北~関東、苫小牧からフェリーで青森県八戸市へ。国道45号線と6号線を使って東京を目指す。特に、昨年の東日本大震災・津波による被災地を訪ね、被災された方々に励ましの言葉を送ること、そして被災地の「今」を自分の目で見ることが自分のミッションだ。1年数か月がたって、被災地は今どうなっているのか…?

 青森~岩手~宮城~福島…太平洋沿岸を南に降りていくにつれて、津波の爪痕は生々しいものになっていく。がれきの山、更地になって草がぼうぼうと茂った中に残された建物の土台、道路のわきに巨大な漁船がそのまま放置されていたり…。コンビニもプレハブで営業。仮設住宅は学校のグランドに建てられ、子供たちは遊び場もない状態。

 それでも、仮設商店街で商売が再開されはじめ、ストップしていた漁業も再び船が沖に出始めたり、時間とともに変化は表れ出している。

 ボランティアの方々とも話す機会があって、現在はかなりボランティアの数も減ってしまっているとのこと。震災の数日後からずっと被災地に住み着いてしまっている人もいるようだ。

 津波が来た当日の様子を細かに説明してくれて、鳥肌が立つくらい生々しい話だけど、テレビのニュースでは伝えられなかった様々な事実も知らされた。

 特に福島では原発事故のため放射能の警戒区域となった地区の人たちが家を捨てざるを得ない状態になった。

 ある方は「津波で家を流されたのならまだあきらめがつく。家も家財道具もすべて手つかずのまま残された状態で家を離れなければいけないなんてあまりにも酷い」という。

 

 自分自身、警戒区域が解除された飯舘村を訪ねてきたが、町はほぼゴーストタウン。自宅に戻ってきた人たちもいないわけではないのだが、町は既に町としての機能を失っていたようだ。

「原発さえなかったら…」

 子供たちの健康面も気になる。家族ぐるみで他の地域に出ていく人も多かったため人口の流出はかなり激しいと聞く。

 被災された方々の生の声を自分の耳で聴く機会を持つことができたが、被災しなかった我々には何ができるのだろう?原発の問題に人々の関心が集まって、被災地やそこにいる方々のことが半ばかすんでしまっているような現状。まだまだ復興にはお金も時間もかかる。

 放射能汚染も確かに恐ろしいのだが、それよりも恐ろしいのは人々の無知と無関心なのかもしれない。

 もし時間があれば、ぜひ東北に足を踏み入れてみて欲しい。考えるよりも感じて理解すること…メディアが伝えられない様々な事実がそこにはある。

 同じ日本に暮らしながら、被災した人としなかった人がいる。 それは仕方のないことだが、被災した人のために被災しなかった人ができることを常々考えることは必要なのだ。

 忘れてはならない3.11。

 日本の首都、華やかな東京の街までたどり着いたけれど、酷暑の国道を走りながら思った。地震や津波は必ずまたやってくる。次に対する備えももちろん必要だが、人と人は絶えずつながっている必要があるのだということ。

 復興という言葉だけが先走って、肝心の中身がないままになってしまってはどうにもならない。

 ここから先は、被災しなかった人々に自分が見てきたものを伝えていく旅になる。

 モノやお金で解決できることもあるのかも知れないけれど、本当に我々日本人にとって大切なものを今考えてみるべき時期に我々はいるのだと思う。

 

(つづく)

  



動画:「PEACE RUN プロモーションビデオ」


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