永久名誉会員 春日光明

「物故30年」~特筆!!サハラ砂漠縦断等資料を後続者に遺し貢献~「偲ぶ」

お願い
「3年6カ月にわたる夢の世界一周後、故郷で32歳という若さで不徳の生涯を閉ざした冒険サイクリスト春日光明同志の青春・人生の一端を、旅立ちから30回忌の本年(2025年)、ともに偲んでいただければ幸いです

本文(原文尊重)、文言の重複、文中の西暦元号表記(数字の全角半角記載による非統一表記)乞うご容赦

■春日光明(1963年9月生れ、1984年4月入会)は1986年5月(22歳)から89年11月(26歳)、世界一周58カ国5万2千kmを走破。

⦿サハラ砂漠縦断資料は保存を託されたJACC事務局から下記会員の要請でコピーを郵送、活用された。※JACC資料室。

●1989年6月15日発送、河野兵市(愛媛県、81年2月~87年11月世界一周、90年リヤカーサハラ砂漠縦断5千km
●1989年7月13日発送、加藤 幸(秋田県、89年8月~96年9月世界一周)
●1992年9月22日発送、井上洋平(東京都、87年6月~93年12月世界一周)※旅先のポーランドのワルシャワ日本大使館気付。95年、「自転車五大陸走破」(中公新書)を出版。
●1993年10月12日発送、永谷彰朗(京都府、88年5月~95年4月世界一周)

挑戦!に備え、JACC事務局のある関西サイクルスポーツセンターKCSC大阪南部の河内長野市)で自転車実習!

「今春、世界一周をめざす長野の春日光明(22)は11月9、10日と来阪し(KCSC北隣の河内長野ユースホステルに投宿して)、事務局のある関西サイクルスポーツセンター・サイクルアトリエで愛車の分解組み立て実技に取り組み、自信を深めた。
また、京都の龍谷大生、山崎光も今春の欧北米走行に先立ち来局。世界一周経験者の和歌山の小森茂之(大阪電通大OB)からアドバイスをうけた。

-機関紙ペダリアン冬第14号5面1986年(昭和61年)1月1日発行より-

⦿和歌山県で初の世界一周25カ国、3万5千km走破(77年4月~80年3月)を遂げた小森。和歌山白浜の田辺市から130kmもの道のりを車で延々、大阪・河内長野市にあるKCSC(20万㎡の施設)まで駆けつけてくれた。感謝にたえない!
小森現評議員は南米北上中のコロンビア・カリ南の橋の下で野宿中に2人組強盗に襲われ持ち物すべてを失うが、新たな自転車で走り世界一周を達成。こうした貴重な体験を春日・山崎に伝えている。小森さん、ありがとう!

写真左から小森茂之、愛車を前にする春日光明、熊本出身の山崎光(地球体験後は帰省し、実家を継いで僧侶に)/1985/11/10於:関西サイクルスポーツセンター・サイクルアトリエ

春日、再訪し、さらに世界一周に備える!

途上国をじっくり見聞 自転車で世界一周計画」と朝日新聞大阪版が紹介

⦿1985年11月のKCSC来訪に次いで、86年3月26日に再訪し、愛車のメンテナンス等を習得した春日(NTT長野日本電信電話会社職員)。5月31日の出発を3月27日付朝日新聞で激励された(上掲載記事)。

長野県上伊那郡出身の春日光明。

長野県には素晴らしい冒険サイクリストがいる。
「何のために? でも理屈抜きで、やっぱり100カ国を巡りたい」と世界100カ国10万kmを目標に、目的ある計画書を作成した待井剛(諏訪市出身)がいる。諏訪実業高校で生徒会長を務め、日本一周後、佐川急便のドライバーとして血を吐きながらも3年間、夢の実現のために働きに働き、旅費1千万円を捻出。
春日に続き、92年4月~98年5月、世界一周117カ国「行きっぱなし」を遂げた待井の地球体験は、「やる気と希望は宝石だ」と地元紙「信濃毎日新聞」に182回連載。それらの活躍で、第3回「地球体験ペダリアン大賞」を受賞(98年10月)している。そして、一期一会の出会いを大切に、歩みを進めたその「出会いが宝」を掲載した朝日新聞の報道が縁で夫人と結ばれ、現在家族4人、兵庫県で暮らしている。

この同志待井のように日刊紙に活躍が取り上げられることもなかったが、素晴らしい体験を重ね、貴重な体験資料を後続者へ遺した長野県の世界一周者で忘れてはならない仲間が現伊那市出身の春日光明同志なのだ!

ハンガリーの首都ブダペストを流れるドナウ河畔での在りし日の少年のような春日/1988年10月

★「1989年11月帰国後、幼子をのこし95年4月、32歳で他界。どういった事情があったのか、何があったかは知る由はないが、思いつめ不徳の生涯を閉ざしたことが悔やまれてならない」★

他界から30年。春日光明同志を偲んでいただければ幸いです。 合掌

■JACCはここに春日同志が仲間のために遺した貴重な資料を“貢献”遺稿として30回忌を機に掲載させて頂くものです。

サハラ越えについて

春日君の資料、スッゴク役立った!」と喜んでいたリヤカーサハラ砂漠縦断の河野兵市らが活用した8枚の資料(上の写真=1989年1月から2月春日走破分)。
⦿アルジェリア、ニジェール等のビザ、両替、宿、物価など、地図入りでびっしりと記述されている。
※詳細な調査には驚かされた!

サハラ情報訂正

「3月にニジェールのアガデスより送りましたサハラ情報の最後の部分に誤りがあるのでお知らせします。訂正願います。アガデスの地図の間違いです。/1989年10月28日JACC事務局受領
「池本さんへ 送ってありますアフリカ情報の訂正
 カメルーン、中央アフリカ、ザイールのタイヤサイズについて、3国とも同じと書きましたがザイールは650-50C(26×2×1四分の三)です」
※春日君の緻密な調査に驚くばかりだった!

アフリカ情報①~⑬

アフリカ情報⑭~㉛

中南米情報①グアテマラ~チリ北部
中南米情報②チリ中部~ブラジル

78ページノート、62ページノートともに1988年5月17日受領には、
「$現金化、国境、闇両替、自転車、郵便、滞在延長、大使館、外国大使館、宿、語学学校、道路、日系人、再両替、送金受取、VISA取得、航空券…」と、現地調査した情報がびっしりと記述されているすごい資料だ!

■添付書には、
 「池本様
                      春日光明より
4月22日にブラジル、サンパウロよりマイアミに飛んで来ました。現在ヒュ-ストンにおり、これよりニューヨークに向けてペダルを踏みます。
中南米情報ノート2冊を送ります。No.①は昨年コピーして送ってあるものの原本です。 お元気に御活躍下さい。 1988.5.10 」
とあった。

同志春日君の貴重な情報提供とあまりにも短い人生を思うとふびんで、いたたまれない感情が覆いかぶさってくるのは私だけだろうか……1979年JACC創設前の77年、愛車ドリーム号で二十歳に旅立ち、旅先のトルコでの不慮の事故で帰らぬ人となってしまった1981年「鎮魂」の国松輝男君(滋賀県、月刊サイクルスポーツ誌で「ガッツ国松の世界の国見てある記」と題して53回連載=1977年1月~81年6月、63カ国8万2千km走破)ともいかずとも、君こそが、もっともっと目立って、もっともっとハシャイデほしい地球を駆け抜けたアドベンチャーサイクリストであってほしかった! 
そして、JACC日本国際自転車交流協会理事で歌手の河島英五さん(故人)が歌っていた「生きてりゃいいのさ」のように、生きていてほしかったよ!
帰国後、頑張り屋の君の役に立てなかったことを衷心悔やんでいるよ。
旅立って30年、この追慕を手向けにJACCは謹んで冥福をお祈りしたい。 合掌
JACC創設者、初代代表兼事務局長・第3代現代表/池本元光(文責)

フィルター協力梶 政雄共同代表(/追慕記事の確認をしました。
私が旅をしていたとき池本さんから届いたペダリアンで読んでいて春日さんの名前は記憶に残っていますが、まさか自死されていたとは知りませんでした。非常に几帳面な人だったようですので、それが災いとなってしまったのでしょうか。とても残念なことでした。)・宇都宮秀俊副代表(/春日さんの手書きのサハラ砂漠縦断の記録を見て、1980年代の私自身の旅を思い出しました。ビザの取得情報やキャンプ場の場所、両替の方法などなど、現在では指先一つでネットから情報を簡単に収集できますが、当時、自力で一つひとつ見聞きしながら調べていった苦労がとてもよくわかりました。ご自身のノートから必要と思われることを抜き出して、安宿の机の上で丁寧に清書したものが、この資料だったのではないでしょうか?お人柄が偲ばれます。現在ではSNSを用いて、自ら情報発信する自己PR型の旅も多くなってきていますが、春日さんのような旅とその行動力は、旅する人の模範になることをインターネット主流の情報化社会の今だからこそ忘れてはならないように思いました。)・出口隆二事務局長、・鈴木邦友評議員(/「不幸」「ふびん」「いたたまれない」「悔やんで」等の切実表現をオブラート表現へとコメンテーター張り論評でフィルター精査を寄せた。)精査へのご尽力に感謝申し上げます


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