永久名誉会員 国松 輝男
世界一周中に交通事故の犠牲に 鎮魂
63ヵ国、82000kmを走破
月刊誌サイクルスポーツに「ガッツ国松の世界の国見てある記」と題して53回連載
1977年1月世界一周に旅立った国松輝男。中学校時代に琵琶湖を一周して以来、「いつの日にか世界を走るんだ」という夢を育み、地元工業高校を卒業後、世界最大の自転車部品メーカー・島野工業(現シマノ)に入社。自転車のメンテナンスを覚えると共に、資金作りに励んだ。
人一倍の旺盛な好奇心を秘め、頑健な肉体とヤル気をもった国松は、3年間で180万円を蓄え、旅の相棒は「ドリーム号」と名付けた。そして出発の2ヶ月前、両親に「世界一周しようかと思うてんねん。」と、まるで隣町へでも行くように打ち明け、父親をびっくりさせた。
「学校を出て就職し、やがて結婚して子どもができる。こんな普通の人生のまま年老いてゆくことが、オレにはどうしても耐えられないんだ。若いうちに何か人と違う、これがオレの人生なんだというものを経験したい。大学を進む代わりに、地球をオレのキャンパスとして未知の世界を旅しながら、そこで出会った人を先生にいろいろな知識を身につけたい。それには、気軽に行ける自転車が最適だと思う。世界中に日本男児のガッツと大和魂の素晴らしさを広めてくる。オレが帰ってくるまで地球を見ながら待っていてくれ。」
国松の20歳の旅立ちはこうして始まった。オーストラリア、ニュージーランド、北米、中南米、ヨーロッパ、アフリカ、ヨーロッパ、そして中東へと旅は進んだ。1981年3月、再びアテネに戻った時、4年以上旅をともにした愛車を盗まれ、6月に気を取り直して二代目のドリーム号でトルコを走り始めた。
1981年6月12日朝、地中海に面したトルコのアンタリア近くで、事故に遭遇した。二又に分かれた簡易舗装道路の左の道に少し入った左側に止まって、トップチューブに跨ったまま地図を見ていた国松を、分岐点から猛スピードで曲がってきた9トントラックに自転車ごと跳ね飛ばされた。頭部強打。即死。
旅立ちから1618日目の不運としかいいようのない事故によってペダルの青春は異郷に消えてしまった。
「あんなことになってしもうて、いま思えばギリシャで自転車を盗まれた時に無理にでも帰しとったらよかったと思うんです。あの子は25年の人生で、人が生きる75年分の勉強をしたんやと思うより仕方ありません。あの子にしてみれば、世界中で勉強したことを活かしたかったやろうにねえ。」と、母親・美和子さんの言葉が述懐される。