第3回 地球体験ペダリアン大賞

第3回は、候補には盲導犬普及を訴え日本縦断(1997/7~8)した東京の池内志織さん(12)、一輪車で日本一周(1997/6~8)した東京の市山研君(12)らの年少者としての勇気と行動力が評価され、また、臓器移植の意思表示カードを配りながら日本縦断(4/4~7/21)した大阪の看護師安田志津さん(24)と金子聡美さん(24)、脳性まひ児救済募金を訴え17カ国目(1991/11~1998/6)の日本に来日し、日本一周した英国のクレイグ・ウォーカーさん(31)らの福祉マインドが高く評価された。

そんな候補者の中から、長野県の待井剛さん(30)が選考された。世界100カ国10万km走破を目標に、まず日本一周(1988/4~10)し、旅費1000万円を貯めるため佐川急便ドライバーとして一心腐乱に働き、堅実な計画の運びで、果てしない未知の世界にチャレンジ。

地元紙「信濃毎日」に182回の連載を重ね、117カ国11万6780km(1992/4~1998/5)を走破し、5月12日、6年ぶりに帰国した。

98年10月11日、同会場で待井へ第3回「地球体験ペダリアン大賞」の贈呈式を挙行。


今回の大賞選考は、2カ国5組6人が対象となり、中でもとくに計画性、行程、周知の点で優れた待井さんの日本人初の偉業で、悲願であった100カ国オーバーの記録が満場一致とするところであった、と竹沢荘一代表、武澤勇近畿地区支部長から選考説明が行われた。

自転車地球体験で、日本人にとってこの100カ国歴訪がいかに困難であるかは、昭和39年(1964年)の海外渡航自由化以後をみても、誰ひとりとして果たすことができなかったのである。

いわば、レベルに違いはあってもヨット世界一周やエベレスト登頂よりも、自転車100カ国走破は、強盗、病気、交通事故等、多方面において困難を超越する必要をも強いられ、まさに“人いきれを駆け抜ける”行動は、危険も多く「冒険とは生きて帰ること」を物語るかのような行為で、待井剛さんが実践した117カ国走破は、実に5年に一度の地球体験ペダリアン大賞に相応しいといえる。

贈呈式は、受賞者待井剛さんの打ち立てた前人未到の“6年間世界117カ国11万6780km走破・夢と感動の世界と仲間たち”として「アドベンチャー・サイクリスト展」(10/1~11/3)を開催した大阪・関西サイクルスポーツセンターで1998年10月11日午前11時から行われ、河野兵市評議員(日本人初の北極点単独徒歩到達者)がプレゼンテーターとなり「大賞」を授賞、栄誉を讃えた。

「出会いが宝」――と込み上げる感涙をこらえながら謝辞を述べた待井剛さんが印象的だった。

ペダリアン1999(第66号)

 日本人初の自転車での世界117ヵ国を走破し、「冒険とは生きて帰ること」を実践した長野県諏訪市の待井剛に、自転車冒険最高の栄誉、第3回「地球体験ペダリアン大賞」が1998年10月贈呈され、その模様が10月17日付朝日新聞にカラー写真2枚と共に大々的に全国報道を受けた。そして、10月23日NHKテレビおはよう関西、10月26日NHKテレビまるごと信州、11月15日テレビ朝日、朝日ニュースター等で広く紹介されるに至った。


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