野尻幸彌 西アフリカ街道報告!

大人気!! 似顔絵交流を展開する野尻:ギニアにて

「ペダリアン」150号表紙掲載「世界を”自転車”で走ってみたい!! 野尻(京都)、ユーラシア大陸終えアフリカへ」の野尻幸彌(高知大OB)からの西アフリカ街道報告!

※2018年5月韓国を起点に中央アジアから中東、欧へとユーラシア大陸を西進。2019年10月25日スペイン・アルメリアから地中海を越えモロッコのフェズにアフリカ大陸第一歩を記した!

モロッコ以降は西サハラ、セネガル、ガンビア、ギニアビサウ、ギニア、シエラレオネ、リベリアへとペダルを進めた。
そして、
「昨日(2/5)1カ月ぶりにインターネットに繋ぐことができました。京都の両親から連絡が入っており、ペダリアン150号を実家の方へたくさん送ってくださったことを知りました。両親も喜んでおりました。ありがとうございました。」と伝える野尻。

以下はその街道レポートです。

【不調】 【サハラの風】 【一体感】 【西アフリカ】に記されたレポートをそのまま紹介させて頂きます。

不調

モロッコの一大観光地マラケシュに着いた時に身体の不を感じました。風邪のようなものだと思って2、3日ゆっくりしたら治るだろうと思っていました。宿で3日ゆっくりしましたがまだ身体のだるさがありましたが、走り出しました。その日の夕方になり体調が悪化してきました。陽が傾きかけた時に着いた小さな町には運良く宿がありました。宿に泊まり、また2日ほど込みました。しかし熱が下がる気配がありません。診療所があり行ってみるも整理券などはなく、診察室の前には何十人もの者が詰め寄り我先にと殺気立っている状態でした。その中を戦い抜き診察してもらう気力も体力もありませんでした。その後2日寝込み熱は下がったのですが、身体のだるさが取れません。朝起きて、どうしても出発する気になれない状態でした。朝起き、外に出てご飯を食べて宿に戻り日中はボーっとする日々が続きました。宿は古く南京虫が居ましたが、それすらどうでもよくなっていました。走る気力を失って行きました。身体が壊れ、心も壊れ始めていました。誰も自分のことを知らない小さな町の古いベッドに身を機たえると、ズドーンと気持ちが沈んでいき大海原に一人ぼっちで取り残された気分になっていきました。モロッコから日本に 帰国することも考え始めました。帰国か続行か悩む眠れない夜を過ごしました。そんな中でも以前お会いした出堀さんと磯田さんから聞いていた西サハラと西アフリカの魅力がずっと頭の中にありました。やっぱり走りたいという想いが強くなってきました。10日ほど過ごした宿を後にし走り続けることに決めました。走り始めると、今まで悩んでいたことが小さなことのように感じ始めていきました。

サハラの風

西サハラの思い出は「風」の一文字でした。毎日朝起きて気にするのは風向きでした。多くの日 は北風ですので、追い風なのですが気まぐれに横風になったり向かい風になったりします。追い風なら150キロほどは走れますが、横風か向かい風になれば50キロほどしか走れませんでした。その日1日の距離も気分も風次第でした。

悩みどころが持ち連ぶ水の量でした。追い風なら次の給地まで行けますが、そうでなければ 砂漠で1泊か2泊しなくてはいけないので持ち運ぶ水の量が変わってきます。心配性の私は常に向かい風を想定した水を連んでいたので重かったです。テントを張る場所もそう簡単には見つかりません。夜間も強い風が吹き続ける日も多かったので、風除けがあり人目につかないところを選ぶのは大変でした。

一度、晩御飯を作っている最中に砂嵐が来たことがありました。ガゾリンバーナーは風で使えず炊きかけの恋のまだまだ残った米をばりばりと食べました。夜間も吹き止まずテントがなびく大きな音が不安を増しました。うとうとしてテントが吹き飛ぶ夢で目が覚める長い夜を過ごしました。

風の静かな夜はテントの外に出て無数の星をめながらうとうとする時間はサハラ砂漠からのご接美なものみたいなものでした。

砂漠の中の首都モーリタニアのヌクアショットに着き、黒人が大半を占め、車の運転の荒さ、エネルギーに溢れた市場や汚さがアフリカに来たんだとという実感を強く沸かしてくれました。

一体感

モーリタニアとセネガルの国境の国立公園は素晴らしい場所でした。幾多の野鳥が飛び回り、野生のイノシシが駆け回っていました。人気が無く未舗装の自然の中を走っていると、その場に自分も溶け込んでいくような不思議な感覚になるときがたまにあります。その時間がとっても好きなのですが、この国立公園でその感覚になりました。

その国立公園を抜けてセネガルに入ると植生がガラッと変化し亜熱帯植物が待っていました。植生や気候といった目や肌で変化を感じることができると、進んでいるんだなと実感が強きます。

西アフリカ

セネガルの首都ダカールでは日本人宿「和心」に泊まりました。久しぶりに詰す日本語や日本食に元気をもらい西アフリカを走る元気を貰いました。セネガル、ガンビア、ギニアビサウ、ギニア、シエラレオネ、リベリアと海岸沿いの国々を走って来ました。日本にいた時はアフリカという国々の情報などほとんど持っていなかったので、アフリカという大きな一国という印象でした。ですが実際来てみると小さな国でも国境を越えると、その国の文化があり言語があり、食文化が根付いていることは驚きとともに感動を覚えました。

西アフリカではこれまでに経験したことのない暑さ、悪路、賄賂、差別が待ち構えていました。

しかしそれらの負を凌駕する人々の優しさも同時に待っていました。ギニアビサウからギニアに抜ける国境の道では自転車ですら行き違うことのできない細い道を抜け、民家の庭にお邪魔しながら抜けていきました。イミグレーションすらどこにあるのか分からず、気づけばギニアに入っていました。出国スタンプを貰うために細い道を5キロ戻り住民に聞きながら着いたイミグレーションはおじいちゃんが椅子に座っているだけの建物もない場所でした。スタンプをビニール袋から取り出し、バスポートに押されたスタンプはかすれかすれでほとんどの文字は手書きで記入していました。

ギニアでは道は未舗装が多く、川には橋が無い所も多く心細い小さな木船に自転車を乗せ川を何本か渡りました。夕方になると村に行き、村長に会い村でキャンプさしてもらいました。泊まらして貰うと、水浴びをさしてもらい、晩ご飯にご飯までも出してくれる村がほとんどでした。夜の8時頃にはテントを立てて眠るのですが、この立てる時には村中の子供も大人も集まり、ジッと見つめてきます。テントに入る頃には、体は汗でベトベトになってしまいます。テントの中は暑く苦しい夜を過ごしました。

道路を走って村を通り過ぎる時に必ず彼らから「クバー」「アボト」「プムイ」といったこちらの言語で「白人」という言葉をかけられます。気持ちが元気な時は手を振りますが、疲れている時に大合唱されると気が滅入ってきます。1日何百回と聞かされます。それが子供ならず大人も一緒に叫んできます。これもアフリカにきて初めての経験でした。

シエラレオネに入ったある日、未舗装路が続き、またその日は特別暑く、小さい高低差が何度も続く道でした。夕方頃には気力も体力も果て次の村でキャンプさしてもらおうと思いながら、大きな峠を越え坂道を下っている時でした。砂利道でタイヤが埋もれハンドルを取られ転倒してしまいました。後ろからは客を乗せたバイクタクシーが来ていました。その運転手はクラクションを鳴らし続け、退け!と言ってきました。言い返す気力もなく自転車を起こし避けました。幸い擦り傷だけで自転車も無事でした。その一部始終を見ていた人が駆け寄って来てくれ「大丈夫か?」と聞いてくれた時に無性に何かが込み上げてきて涙がボトボト溢れてきました。人の前で涙を流したのはいつぶりだったか分かりません。日本では高価でなかなか食べれないような物も安価で食べれるのも嬉しいところです。残念ながらマンゴーの季節はもう少し先ですが、アボカド、バイナップル、ココナッツ、バームワイン、パパイヤといった物が路上で売られています。カラカラに乾いた体にみずみずしく甘いバイナップルは五臓六腑に染み渡ります。またシエラレオネで初めて口にしたのがパームワインでした。。パームツリーから探られるパームワインは微炭酸で、発酵しており少しアルコールが入っているそうです。路上でこれを見つけると立ち止まりコップに注いでもらい一気に飲むと元気が浮いてまた漕ぎ出せます。

タフな西アフリカの旅ですが、たくさんの方に助けてもらいながら、熱帯地域ならではの食べ物に元気をもらい充実感いっぱいの自転車旅になっています。

と、頑張って西アフリカの地にペダルを踏みしめた野尻。

今はリベリアの首都モンロビアにいます。

元気に進んでおります。似顔絵はアフリカでも描き続けています。1人の子を描くと僕も私もと、一気に村中の子供達がやって来て大変なことになるので、状況を見ながら描かなくてはならないのがアフリカの特徴です。

西アフリカからさらに南下して行くにはビザの取れない国がいくつかあり、飛行機を使わなくてはいけなくなるのと資金的に南アフリカまで行くには厳しいこともあり、一度帰国することにしました。春頃には帰国予定です。

1年ほど資金を貯めた後、東アフリカ、南米と走る予定です。

構成:池本


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