「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」第3ステージ東海道
(日本縦断ランニングその2)
高繁勝彦
東京を出てからは暑さも日増しに厳しくなっていった。
その一方で入れ替わり立ち代り必ず誰かが目の前に現れて、伴走してくれたり、差し入れを持参で応援に来てくれたり……。
ただ毎日一人で黙々と走るだけでは単調な時間を送るだけで、誰かが一緒にいてくれることで気を紛らすこともできてありがたいことだった。
インターネット、特にツイッターやfacebook・ブログで日々の状況やリアルタイムでの現地の様子を伝えていたおかげで、つぶさに反応があったりする。
二年前の日本縦断でも似たようなことはいくらかあったが、今回ほどではなかった。
情報の発信量が増えたこともあるし、自分自身のネットワークもどんどん拡張し続けているということだろう。
ひとつ驚かされたのは、東京を出て二日目、神奈川県小田原市に入る日のこと……。
走っていて、突如後方から大きな音量でPEACE RUNのテーマソング、励まし屋が歌う“Go The Distance”が流れてきたのだ。
振り返れば一台の軽トラック、屋根の上に大きな選挙カーのようなスピーカーを積んでいた。
運転していたのは小田原市の市会議員大村さんだった。
福島県相馬市でお世話になった渡辺さんから紹介していただいて、前日までメールでのやり取りがあったが、まさかこんな形で現れてくれるとは予想だにしなかった。
大村さんの話……
「どうやって歓迎の気持ちを表したらいいか……ずっと考えていたんですよ」
ユニークで個性豊かな大村さん、自分と同じ種類の人間と見た。時に突拍子もないことを考え、実行されるのである。
小田原市に到着して小田原城の中にある市の観光課を訪ね、職員の皆さんに歓迎していただき、夜は大村さん宅でお世話になる。
相馬市と小田原市は二宮尊徳という人物が共通して関わっている。
かの偉人が取り持ってくれた縁で大村さんとの出会いがあったことに心から感謝。
東海道の難所の一つ目、箱根峠、小田原から沼津まで約50キロ。峠までの登りが約20キロ、峠からの下りは30キロ。
登りはさすがにきつかった。一号線も道幅が狭くなり歩道もなく路肩もきわめて限られている。
押しているバギーは幅があるので車にとっては迷惑千万だったかもしれない。
勾配自体はさほどきつくはないが一方的に登りが続くという点では精神的にかなりこたえる。
国道一号線最高地点を過ぎて箱根峠をクリアするも、そのあとの下りが実は相当大変なのだ。
自転車ならペダルを踏むことなく快適に下っていけるダウンヒルも、バギーで走るとなると気をつけなければ危険を伴う。
下りで加速すると勝手にバギーが走り出す。バギーが暴走しないように腕で支え、脚で踏ん張りながらスピードをコントロールするのだ。
これは腕だけでなく、肩や背中、腰にまで力が入る。
短いダウンヒルなら問題はないが、30キロも下りが続けばダメージも大きい。
勾配のきつい登りは押し歩きになるので問題ないが、下りは自然とスピードも上がっていくもの。
沼津に到着する頃には太ももの前面や上半身全体の筋肉がパンパンになっていた。
静岡から愛知へ。
東海道ではどこを走ってもコンビニやスーパーがあって、北海道や東北エリアのように食料調達に不都合を感じることもなかった。
大きな街に行けばたいていショッピングモールがあるし、国道沿いにはファストフード店が山ほどある。
その昔、30~40年前はこんなにたくさん店もなかったのだ。
恐らくきっかけは80年代、バブルの勢いに乗って右肩上がりの時代、とにかく社会は消費中心の暮らしを促進してきたのだろう。
お金を出せば何でも手に入る……下手をすればそんな感覚さえ生まれかねない。
便利さに麻痺してしまうと人間は堕落する……そんな風にも感じる。
一号線のバイパスは曲者。
大きな町にさしかかると必ず自動車専用道にぶつかる。
歩行者・サイクリストは迂回路を見つけなければいけなくなる。
国道に平行した県道が迂回路になる場合が多いのだが、何度か道に迷い、その都度メインルートに戻るのに遠回りさせられる。
スマートフォンのGPS機能とグーグルマップを頼りにしても、時折とんでもない道に導かれて自動車専用道にぶちあたったり……。
あるいは、指示された道を行くと通行止めで行き止まりになっていたこともあった。
東海道はやはり旧道がいい。
江戸時代に栄えた宿場町は今もその時代の名残があって、走っていると心も和む。
松並木の続く静かな道、街道沿いには創業数百年といった宿や店が今も残っていたりする。
新しいものを作るばかりではダメなのだ。
古いものとうまく共存しながら歴史を刻むことが今の時代は特に大切なのではないか。
名古屋エリアも交通量が多く、バギーの行く手を阻む歩道橋に悩まされる。
バギーの幅は歩道のスロープよりも広く、片方の後輪をかつぎあげるようにして前進しなければならない。
交差点に出くわすたびにこの試練が待っているのだ。
エレベーターもなく、横断歩道があるところまで迂回するには距離が遠すぎる。
車椅子利用者だったら、一体こんな場面でどうすべきなのか?
四日市から鈴鹿山脈越え、一号線を外れて交通量の少ない県道をたどっていくと急勾配の山越え。
勾配10パーセントを越えるような登坂路……。
ほとんど人も車も通らない、人家や店、自販機さえも全くない道を延々と登り続ける。
四日市をスタートする際に水や食料を十分に買っておかなかったので、途中で不安になった。
土山の手前で国道一号線に合流できた時にはホッとした。
安楽越え、ここは箱根以上に厳しくタフなルートだった。
滋賀から京都へも、小高い丘や峠をいくつも越えていく。
過去に自転車やランニングで走ったことはあっても、その時代の体力とはやはり比べ物にならない。
逢坂峠と三条大橋に向かうだらだら坂、暑さでぶっ倒れそうな中、60キロ近くの距離を走らないといけない。
町が近づくものの何度も道に迷い、地元の人に道を訪ね、グーグルマップで再確認、その繰り返しだ。
アナログ人の自分はどうしてもデジタル人にはなれないということ。
京都市内に入ってようやく関西に戻ってきたという感覚。
歌手の内田あやさんやPEACE RUNの仲間も三条大橋で待ってくれていた。
京都~大阪間でバギーの故障。
後輪のシャフトが破損、ホイールのベアリングは寿命、タイヤも擦り切れてチューブが飛び出し、スポーク切れも同時に起こった。
旅では想定外のいろんなことが起こり得る。
その都度柔軟に、冷静に対応するしかない。
8月半ば、淀川の河川敷は砂漠のようだった。
水道も木陰もコンビニもなく、ただアスファルトの上を黙々と走るだけ……。
午後、灼熱の太陽が頭上でギラギラと輝き、汗はとめどなく流れる。
いくら水分を摂っても摂り足りない。
ボトルの水はぬるくなり、冷たいものを体が要求する。
でも、自販機もコンビニもない。
ここはアメリカの砂漠でもオーストラリアの平原でもないのに……。
そんな葛藤が数時間続き、やむなく途中から国道に戻ることに……。
ようやくコンビニにたどり着いた時にはホッとさせられた。
走っている際によく通行人からたずねられる。
「なぜこんな暑い時期に走っているのか?」
答えに困る…というよりも納得してもらえる答えができないのだ。
「走りたいから走っているんです。季節は関係ありませんよ」
こういった答えに、質問された方は「この人はたぶん普通じゃないんだ」と思うことだろう。
自分がやっていることに自分自身疑問を持つことも決して不思議なことではないのだから……。
大阪は天満橋がゴール。
PEACE RUN事務局長木村さんも伴走にきてくれた。
酷暑のさなかの8月、この日はナイトランになったが、やっと大阪にたどり着いたという喜び。
スタートの北海道から約2500キロを走ったことになる。
ゴールの鹿児島まであと1000キロはあるだろうか。
数日間のオフの間に、バギーMUSASHI号の整備をして、実家にも立ち寄ろう。
仲間が企画してくれたお疲れさん会もある。
二本脚でひたすら進んでいく旅は、気長に、ゆったりまったり進んでいくしかないのだ。
決してあせらない、あわてない、そしてあきらめないこと……。
(つづく)