日本の旅

Aleksander Klaja

※ポーランド中西部の町ポツナンに住むサイクリスト、アレクサンダーさんとカロリーナさんから自転車旅行のレポートが届きました。二人でポーランド製おんぼろのタンデム自転車を駆使してポーランドから日本に7ヵ月あまりかけてやってきました。

私アレクサンダーと妻のカロリーナは、2013年4月2日、ポーランド中西部ポツナンという町からシンガポールまでのユーラシア大陸横断サイクリング旅行に出発し、途中に日本を旅しました。三段変速機つきの二人乗りタンデム自転車でポーランドから、ウクライナ、モルドバ、ロシア、カザフスタン、モンゴル、中国、そして韓国を走行して2013年11月9日、下関にやってきました。

日本に着いてみてカウチサーフィンで知り合った日本の友人から日本の文化や習慣を教えてもらい、韓国と様子がかなり違うのを感じました。当初は下関から東京を目指して一直線に東へと進んでいこうかと考えていましたが、下関で出会った日本の自転車旅行者たちから九州へ行くことを勧められそうすることにしました。

下関から長崎に向かいました。交通量の多い国道をできるだけ避け、県道など比較的交通量の少ない道を選ぶようにし、大きな町を避けました。田舎の景色はとても素晴らしくよかったです。しかし天候にはあまり恵まれず、二日ごとに雨に当たり、びしょ濡れと寒さに遭いました。そしてたどり着いた長崎では、1945年の悲惨な原爆が落とされた施設を訪れました。

阿蘇(aso)

長崎の次に阿蘇に向かいました。そこには私たちが人生で初めて見る火山があるのでとても楽しみでした。自転車に積んでいた重たい装備は麓に置いて、荷物を積まない自転車で山上を目指しました。標高を上げるにつれ気温は下がり、山の上ではポーランドを出国して以来初めての雪を見ました。中岳山上に着くと、すぐそばのさらに高い頂上を目指して歩き始めました。しかしだんだんと雪が深くなり、風も強まってきたので頂上まで道半ばで引き返しました。曇っていたし、私たちのほかに誰も人がいなかったので事故が起きる危険性がありました。

阿蘇から九州の東側へ向かっている途中、九重の山の中で道に迷いました。行きたい方面に続く道を探していると、ある親切な男の人が自宅に私たちを招待してくれました。そして暖かいコーヒーと食べ物をいただき、道を教えていただきました。親切に感謝です。その日、温泉を見つけ、入ることにしました。私たちにとって初めての温泉入浴でした。外はとても寒く、キャンプ生活ではシャワーを浴びることがあまりなかったので、温泉はとても気持ち良かったです。

九州サイクリングの最後に有名な温泉地、別府を訪れてから下関の友人の家に戻りました。そして東京へと向かいました。大雨が続き、一週間かけてようやく広島に着きました。宮島や平和公園、原爆ドームを訪れました。

宮島(miyajima)

広島を離れてすぐに自転車のトレーラーが壊れました。しかし、自動車の修理工の職人が親切に無料で修理してくれました。

いくつもの橋を渡り四国に渡りました。四国では初めて日本の田舎の家に泊まることができました。

大阪ではたくさんの旅行好きの仲間に出会うことができました。そしてオレンジハウス(Orange House)というゲストハウスに宿泊させてもらいました。有難うございました。大阪では次に訪れる予定の中国ビザを取得しました。

大阪(osaka)-久本会友、川畑会員、中西国際部長、馬場茂さんらに会う

そして、大阪から京都へ。京都では北極探検家の馬場茂さんのお宅でお世話になり、一週間京都の歴史的寺院や街を散策しました。馬場茂さん一家と過ごした日々はとても印象深くとてもお世話になりました。そして、京都を出る日、再び自転車のトレーラーが壊れてしまいました。馬場茂さんが丈夫な部品に取り換えてくれました。

静岡に来て初めて富士山を見ることができました。特に海岸からの眺めがとても印象的です。そして、日本国内を2248km走行して、最後に東京にやってきました。次の国中国へは大阪から上海へのフェリーで移動を考えていましたが、とても寒いのでここ東京から12月27日、成田から香港に飛行機で移動することに決めました。

静岡(shizuoka)

タンデム自転車で世界旅行しようと決めたのは、妻と二人いつでも一緒に助け合いながらサイクリング旅をしたかったからです。また、アジアではタンデム自転車で旅行するのはめずらしいので人々に見せたかったからでもあります。生まれて初めて見るタンデム自転車に笑顔を見せてくれる人が多かったです。私たちのタンデム自転車は重たく、3段しか変速がないので、上り坂は厳しく、押し歩くことがよくありました。警察官に何度か止められることがありましたが、警察官は私たちのパスポートを不思議そうに見るだけで、トラブルは一度もありませんでした。成田から中国東方航空で香港までの航空運賃は二人で15万6900円でした。タンデム自転車は二つに分解でき、段ボール箱に自転車と荷物を46キロづつに分けて持っていくと、少しオーバーサイズでしたが、超過料金は取られませんでした。

将来は旅の経験を本に書きたいと思っています。そして、この旅が終わったらたぶん来年は東ヨーロッパのバルカン半島やトルコに行っていたいです。全部の大陸にも行ってみたい!

アレクサンダーとカロリーナより

宇都宮副代表、海外サイクリング

海外サイクリング記録 No286 宇都宮秀俊(福岡県北九州市) 2013年12月現在

海外報道記録-松葉京三

No.1 (1985年 ブラジル・マナウス)
No.2 (1986年4月29日 ベネズエラ・バルキシメト)
No.3 (1986年 ベネズエラ・バルキシメト)

PEACE RUN2013オーストラリア・ニュージーランド ランニングの旅

2013年11月8日 南オーストラリア セデューナにて

高繁勝彦

【ナラボーを越えて】

10月9日にナラボー平原の西の入口、ノースマンをスタートして1ヶ月たらず。 ついに、今日、ナラボー平原の東端の町、セデューナにゴールした。 幸い予想していた熱波に見舞われることも少なく、冷涼な気候のお陰で体調をくずすことなかった。おまけに怪我やトラブルにも遭うことなく1200キロのナラボー平原を貫くエアハイウェイを無事に走破することができた。 当初は食糧難で、ロードハウスで手に入る食べ物も限られ、ひもじい思いをしながら、時には腹が減って走ることもできず、情けない思いも経験した。

マデューラの手前で、フィアンセぴあぴを含む天球ぴんぽんずが突然現れて驚かされる場面があった。 3人が来てくれて、愛と勇気と元気をもらい、おまけに大量の水や食料など差し入れをしてもらい、命拾いをする思いに…。私にとって3人はまるで救世主だった。ナラボー平原横断が成功したのも、3人のおかげと言っても過言ではない。

地平線の果てに向かって続くただ一本のハイウェイ。 行けども行けども地平線に終わりはなく、一人走る道はあまりにも遠く長く果てしなく、延々と変わらぬ風景だ。バギーに積んでいるのは、水(16〜23リットル)、食料など、60〜70キロになる。1日50〜60キロを黙々と走ったところでなかなか広大なナラボー平原の先が見えてこない。 それでも、地道に前進し続ければ、どんなところにでもきっとたどり着けるのだという思いでひたすら前へと挑戦する毎日である。

360度地平線に囲まれた広大な原野の風景。昇る朝日や沈む夕日の美しさに心癒される機会も多々あった。 一方で、過酷すぎるほどの厳しい自然環境にさらされたナラボー平原である。毎日野ざらしの状態で旅をしていれば、人間というのはあまりにも小さく弱い存在であるかと痛感させられる……。

自然の力は時として人間の想像を超えるものがある。 気温2度で寒くなったかと思ったら、いきなり35度の酷暑がやってきたり、日照り続きかと思えば、予想だにせぬ砂漠の豪雨もあった。 特に、風はいつも気まぐれ。 平原を吹き抜ける突風でテントがぶっ飛ばされそうになったり、砂嵐に見舞われテント内が砂埃だらけになったり…。 気持よく走っていても、向かい風になれば当然ペースダウン、一歩進んでは二歩押し戻される感覚。容易に前に進ませてもらうことができない。 平原とはいえ、時にはジェットコースターのようなアップダウンが小刻みに続くローリングヒルがある。一般的にナラボー平原はほぼフラットとは言われるものの、決して楽な道ばかりではなかった。

いかにうまく自然と共存していくかということも、今回の課題だったと言える。 ナラボー平原で過ごした一ヶ月、様々なことを学ばせてもらった。

いつも腹を減らしていたナラボー平原の前半、フラフラ走っていたら通りすがりの車が目の前に停まって、水や食料(新鮮な野菜や果物)を差し入れてくれた。 車の窓越しから名を名乗ることもなく、ただ善意でこういったことをしてもらえて、最初は嬉しさと驚きで涙が止まらなかった。 時にはキャラバンの中に招き入れられ、食事をごちそうになった上におみやげまで頂いたこともあった。それから、ナラボー平原後半は、ほぼ毎日のように誰かからいろんなものをもらい、水を飲んでも、食べ物を食べても決してなくなることがなかったのは驚くべきことだった。

旅の趣旨を話して、東日本大震災復興支援義援金を寄付して頂いた方々も少なくはありません。現時点で600ドルあまりの寄付を頂戴している。 困った時には必ず助けの手を差し伸べてくれる人がいるのだということにも感謝感激感動。 この世界で、愛に満たされ、平和な気分にひたりながら走れたことは本当に幸せであったと思う。

旅の途上では、様々な国や地域から来ている旅人ともたくさん会うことができた。 彼らは、ランナーやサイクリストであったり、モーターバイクツーリストであったり、キャラバンで旅をするオーストラリア在住の夫婦であったり…。 人種や民族、国籍に関わらず、同じ地球市民として、同じ時代に、同じ地球に生きている同朋・仲間であるということを心から嬉しく思うこともしばしばあった。 平和だからこそ出会える喜びに感謝すべきと思う。

ナラボー平原では、すべてのロードハウスに立ち寄り、ボーダーヴィレッジとペノン以外のすべてのモーテルやキャビンに泊まった。そこでは通常(町の価格)の2〜3倍もする高価な食料や飲料を購入した。しかも、手に入れられる食料はスナック類など限られた種類のものばかり。輸送コストや輸送の手間を考えればそれは致し方ないことではあるが…。 ロードハウスのモーテルでは貯水タンクの雨水を飲んだ。 シャワーも貯水タンクの雨水だ。シャワーは毎日浴びられるわけではなくロードハウスのある場所のみなので、3〜4日に一度。 ネットワークは限られた場所にしかなく、すべてのロードハウスでインターネットが使えるというわけでもない。情報の受信や発信は3〜4日おきしかできない。ネットワーク圏外にいることが普通の状態です。 普段、日本で暮らしていて、あたりまえと思っていたことに不自由するのがこちらの日常である。

ロードハウスのないところでの宿泊は、レストエリアやアウトバックでブッシュキャンプする。水道も電気もトイレもない原野でテントを張って夜を明かすしかない。 アリやハエの大群に歓迎されこそすれ、毒蛇やサソリ、毒蜘蛛の猛襲を受けることはなく、平穏無事な夜を過ごせた。 セデューナまで約2500キロ。オーストラリア横断のまだ半分たらずしか終わっていないが、最大の難所ナラボー平原走破を終えて、今は安堵の気持ちに浸るばかりだ。 今回は18年ぶり、二度目のナラボー平原横断になる。一度目の、1995年に自転車でオーストラリア横断した際の、セデューナの町が見えてきた時のあの感動を思い出した。あの時は、わずか2週間足らずで1200キロを走破したが、様々な苦難と試練を乗り越え、やっとの思いでたどり着いたセデューナだった……。

今回は自転車ではなく、ランニングであってもその気持ちは何ら変わることはない。 ナラボー平原はある意味特殊な場所である。砂漠の原野の中で私が体験してきたことは、普通に暮らしている人々にとっては考えられない、想像を超えた経験であったのかもしれない。そんな、ここでしか得られない特別な経験を経て、今、再び町に戻ってきた。 ノースマンを出てから、約ひと月ぶりに見る普通の町セデューナ。 買い物は普通のスーパーマーケットでできるし、食べたいものをあれこれ選ぶことができる。断食をしていたわけではないのだけれど、まるで断食明けのような気分である。 お金さえ出せば、何でも好きなものが手に入る。…そんな場所は文明国なら珍しいことではないのだが。 ここで私は、お金を出してもできない経験をしたことに素晴らしい価値を見つけ出せたということなのかもしれない。

セデューナで気持ちをリフレッシュして、ここからはポートオーガスタ経由でアデレードを目指す。そして、メルボルン、キャンベラ、シドニーと東部に向けてそのあと進んで行く。

「PEACE RUN2013 オーストラリア横断+ニュージーランド縦断ランニングの旅」は、あと6ヶ月近く続きますが、引き続き気を緩めることなく、前進して行こう。 季節が夏に向かうこれからは暑さが日増しに厳しくなっていく。ただ、町から町の空白区間はナラボー平原内のような広大なことはなく、東部に向かうにつれて人口密度も高くなっていくので、まだ安心できる。

世界にいる70億人の一人でも多くの人々との出会いを続ける旅…自らの脚で出会いに行くのが私のミッションだ。 今後共、PEACE RUN、アドヴェンチャー・ランナー高繁勝彦のご支援・サポートをよろしくお願い致します。

池本元光─海外報道(紙誌TV)記録

帰国から41年経過した2013/8/31~9/4作成
(タルーゼ号世界一周1968/8/1~1972/12/15主な入手記事162件)

2013年ペダリアンの集い 高知県

2013年のペダリアンの集いは10月12・13・14日、四国の高知県で開催されました。日本全国からの会員、会員外の合計10名が集まり、3年目の「コグウェイ四国」を開催する山田美緒評議員を応援しました。

開催地:高知県

※今夏(2013年8月12日)、観測史上最高となる41.0℃を記録した四万十市江川崎観測所の近くをサイクリングしました。

10月12日 AM8:00 高知・三翆園ホテル集合

JACCペダリアンの集い参加メンバーと山田美緒コグウェイ実行委員長

ペダリアンの集い参加者全員で「コグウェイ四国」参加者の自転車点検や修理をサポート。(約20台の自転車をメンテナンスする) 交換部品は出口事務局長が提供。

ブレーキ調整の不具合、ギアチェンジの
調整不良、パンク修理、部品交換、
オイル注入などのメンテナンス


 

AM11:00 サイクリング開始

出口事務局長、後藤さん、田嶋さんの3名はこれから2日間「コグウェイ四国」のサポートカーの運転と自転車メンテナンスのためコグウェイに同行。その他の「集い」参加者は海岸線を今夜の宿泊地であるライダーズイン中土佐を目指してサイクリング。

まずは坂本龍馬像のある桂浜を目指す!
太平洋の絶景(横浪黒潮ラインより)
夜は恒例のバーベキュー
ライダーズイン中土佐(海のすぐそば)

         

10月13日 「四国カルスト~四万十大正 サイクリング」

四国カルスト・五段高原(標高1400m)
四国カルスト上で昼食 土佐は海の幸が豊富
土佐のサバ鮨
秋の花の季節 コスモス
ケイトウ
栗拾い
 

10月14日 「四万十川サイクリング」

沈下橋をサイクリング

晴天に恵まれた3日間でした。美しい水の流れと自然の景観を満喫し、あたたかい地元の人々の人情にふれとても有意義な集いとなりました。高知の皆様有難うございました。参加者の皆様たいへんお疲れ様でした。

2014年の「ペダリアンの集い」は関東方面で行いますので、全国皆様のご参加をお待ちしております。

山下晃和評議員、著書発売 

自転車ロングツーリング入門
2泊3日から大陸走破の長期自転車旅まで
山下晃和著(ヤマシタ アキカズ)

山崎さん、故河野兵市記念碑訪問

河野兵市記念碑

リーチングホームプロジェクトでベースキャンプを置いたカナダ・レゾリュート村にある。
不慮の事故から1年後の2002年5月1日完成
リーチングホームとは、自転車での世界一周やリヤカーを引いてのサハラ砂漠縦断、単独そりをひいての北極点到達など数々の冒険行を達成してきた冒険家・河野兵市が、北極海から愛媛まで1万5千kmを人力で行うという壮大なプロジェクト。悔しくもプロジェクトの途上で不慮の事故が河野兵市を襲った。
河野兵市 著書:「北極点はブルースカイ」(愛媛新聞社)
2013年、河野の友人で北極犬ぞり探検家の山崎哲秀さんが訪問し、供養する。

エミコ・シール評議員一時帰国報告 

ちょうど一年前…エミコさんと初めてお会いしたのがまるで昨日のことのようだったけれど、一年ぶりに再会できた。

あの時、彼女は再発したガンと闘病中だった。

平成25年度春のサイクリングツアー企画

四国は中央構造線が作り出した独特の地形と、その影響による特殊な文化や伝説に満ち、サイクリストに魅力溢れる所です。四国に聳える剣山と石鎚山は名山百選に選ばれ、石鎚山を源流とした吉野川は、四国を東西南北に流れ、厳しい地形を形成しています。

  この厳しい地形に、権力闘争に敗れた、物部氏や平氏が隠れ住み長い時間が経過しました。

 山里には急峻な街道でしか近づけず、政権を追われた人々が隠遁生活を送るのに都合がよかったのでしょう。平成の今でも国道193号・438号・439号はその面影を残し、酷道イッキュウサン・酷道ヨサクなどと証されて、一部のモーターツーリストの憧れとなっています。 今回は、この酷道を走り、平氏の隠れ住んだと言われる祖谷地方を訪れて、限界集落を経過して、廃村集落となった村を回り、やがて訪れる日本の近未来の山里を見に行こうと考えます。

集合:5月3日10:30 JR四国貞光駅
解散:5月4日15:30 JR阿波池田駅
または
5月5日15:00 JR伊予西条駅

参加希望・問い合わせ先
サイクルショップ銀輪亭 出口隆二JACC事務局長 tel:06-6854-4543

File written by Adobe Photoshop¨ 5.1

見所・走り所

1. JR四国貞光駅を下りて、つるぎ町役場を右折すると吉野川支流の貞光川沿いに標高差1,450mを登る438号線を36km走ります。この間の渓谷美はお勧めですが、後半の20kmは急勾配の登坂がこたえるはずです。

2. 国道438と439の合流点は、標高1,500mですが、ここからの剣山(1995m)の眺めは最高です。

File written by Adobe Photoshop¨ 5.1

3. 酷道439号線に入ると、その狭さや、通行量の少なさに驚きます。又、46km地点で野猿・2重かずら橋が見られます。このかずら橋は西祖谷にある観光化された橋と異なり、ひっそりと自然の中にあり、趣があります。又、近傍の集落は、かかしの里としてNPOが、旧住民をモチーフにして案山子を飾り、驚きの光景です。

4. 京柱峠は酷道439号線の徳島県・高知県の県境にある峠、たどり着く行程の道に驚く事がいっぱい有ります。又峠には一軒の名物うどん店があり、しし肉うどんはお勧めです。(途中に鹿や猿に出会います。)

5. 吉野川沿いにある大歩危・小歩危は日本の街道における難所の代表格。新潟県糸魚川市にある「親知らず子知らず」と争う難所の一つで、この景観と四国三郎(吉野川)渓谷を楽しめます。

参加費用概算

1日目

  昼食・補給水・補給食       各自負担

  宿泊費+いやしの温泉郷       約 11,000円

2日目

  昼食・補給水・補給食       各自負担

合計予算 約11,000円+昼食・補給水・補給食×日≒20,000円
※往復の交通費は別途必要

追加コース・オプション(3日目走れる人は、次の行程も可能)

  2日目夜宿泊 (大豊町にある宿泊施設「学校に泊まろう」3,000円但し、食事は自炊)

  3日目  大豊町→最明浦ダム→吉野川渓谷→高知県伊野町木の香温泉→石鎚山瓶が森→伊予西条 約70km

       石鎚山瓶が森は、四国で一番高い舗装道路区間(1680m)

       午後3時頃 伊予西条駅解散

サイクリング報告
1日目剣山
2日目京柱峠
3日目早明浦ダム

安全対策と心得ておきたいこと

※世界一周中の出堀良一会員から今後世界を旅するサイクリストたちへのアドバイスです。(2013年1月)

現在、東アフリカを走行中の出堀です。

昨年末まで西アフリカを走行していましたが、先のルートが情勢不安のためビザの発給が停止されているとの事でカメルーンより東アフリカのエチオピアへ渡ってきました。中部アフリカを走行できなかったのは心残りですが、新年をエチオピアで迎え心機一転アフリカ後半戦の旅路に今ではワクワクしています。そんなエチオピアにはいり3週間ほど経った現在、TVのでは連日マリを中心とした西アフリカの戦慄を伝えるニュースが流れています。ほんの数ヶ月ほど前まで走行していた場所が今では戦いの舞台になってしまっていることに驚きと悲しさを感じずにはいられません。一つ判断を間違えていれば僕も事件に遭っていたかもしれない。そう思う恐怖は隠しきれません。ギニアの首都コナクリでこの先のルートを検討していた際、すでにマリには危険信号が出ていました。あらゆる情報を集め検討し、その時点では無事にマリを通過する事ができましたが、そのとき抱いた懸念事項は遅いか早いかの違いしかなかったのです。

北アフリカの情勢不安から砂漠の武装勢力が行き場を失っている事は分かっていました。そして、モロッコでお会いした方が話してくれた“砂漠は陸の海である”という言葉が気がかりでした。大海原を渡る船同様、砂漠の民は道なき砂の大海原をラクダという船に乗り、星を頼りに迷う事なく旅ができるのです。もちろん国境など関係なく各地に点在した仲間と合流する術を彼らは日常から持っているのです。そして情勢は一夜に変わるのです。

めまぐるしく変化する世界情勢、昨今多発する旅行者の事故。アドベンチャーサイクリストという特別なカテゴリーの中で、僕らはどのように安全対策を行い、また心がけないといけないのか。僕なりに考えてみました。これは現行中のサイクリストの皆さんで確認しあいたい事と、これから世界に飛び出そうとする皆さんへ向けて次なる事故を未然に防ぐ目的で書き出してみたものです。諸先輩方には当たり前の事で、至らぬ点も多々あるかと思いますが、そこは追記して頂き充実した安全対策になれば幸に思います。

世界を自由気ままに自転車の旅……
何も気兼ねなく走り進めてゆける世界になる日を願っています。

安全対策 ─ 自分の身は自分で守る ─

走行上の注意

①安全グッズは極力身につける

ヘルメットの着用、バックミラーの装備、反射板やテールランプ、GPSや携帯電話の通信機器など安全を確保できる装備はできるだけ身につけておくようにしましょう。装備の着用は個人の判断次第ですが“備えあれば憂いなし”と心得ておきましょう。最近ではGPSによるSOSサインが出る端末機もあります。一言の連絡や、警備会社への緊急発信が可能で、緊急時にボタンを押すと警備会社の社員が現地に飛んで来てくれるものがあるそうです。(←モロッコで会ったサイクリストが紹介してくれました。)長期旅行では難しいと思いますが、安全グッツも日々進化しています。

②夜間、悪天候時には走行しない。

これは徹底しましょう。視界が狭まる夜間は平衡感覚も失われ、まちがいなく事故の元です。悪天候時も同様。スコールや霧、雲の中など突然の天候変化は細心の注意をして安全が確保できるまで待機すること。日が暮れかけ「あともう少しで町だ……」という状況でも、その先に悪路や上り坂で闇が追いついてしまうかもしれません。町に到着できても安心できる宿を探すのに時間がかかるかもしれません。そこで足を止め、日落ちまでのわずかな時間を安全確保に使えるかどうかが真のアドベンチャーサイクリストであるかどうかの分かれ道です。

③祝典・祭礼・選挙などのイベント時には走行は控える

多くの人が集まるイベントがある場合は交通機関が麻痺し、思わぬトラブルになる可能性があります。建国記念日や独立記念日、戦勝記念日の軍事パレード、日本では馴染みの少ない祭礼日など世界には多くのイベントがあり、国内や海外から多くの人々が訪れます。また、選挙も日本とは比べ物にならないほど大イベントになり当選しなかった議員の支持者による暴動や事件も多発するの国もあるので外出も控えた方がいい場合もあります。また大掛かりなスポーツイベントや国によりクリスマスなども同様です。

④世界の動きに敏感になろう。時勢の目を持とう

まだまだ世界情勢は綱渡りをするように不安定で一夜にして事態は一変します。今いる国の情勢を把握しておくのはもちろんですが、世界情勢は芋づる式に繋がっていったり飛び火したりするものです。(宗教紛争、連帯加盟国家、武力介入など)情報、ニュースを得るタイミングがあれば今いる国の問題だけではなく広い目で世界の現状を把握しておきましょう。

⑤その国を勉強してから入国しよう

同じ大陸内であれその国にはその国の歴史があり、考え方やマナー、習慣が変わります。特に宗教などデリケートな部分は細心の注意が必要です。日本ではOKであることもその国ではタブーとされている行動も多く、前もって理解をしてから入国するようにしましょう。国籍や宗教が違うから……旅行者だから……といって許されるものではありません。その国で事件を起こせばその国の法律で裁かれることと同様、その国のルールに従いましょう。“郷にいれば郷に従え”です。

※挨拶の仕方、衣服の注意、食事のマナー、喫煙&飲酒のルール、写真撮影など
(宗教によっては、他人が触ってはならない体の部分や女性厳の場所などもあります。ほかにも迷彩柄の衣服は軍人以外着用禁止の国もあります。)

※各地域で流行している病気や伝染病も同様です。

⑥野宿は安全第一に考えて設営を

地域によっては定期的に宿泊施設がなかったり、無村地帯を走行すれば必然的に野宿を余儀なくされます。途上国では幹線道路やメイン道路を走る事が多くなると思いますが、国の血管の上を走っている以上道路沿いには切れる事なく商店や民家が並び、道路脇は畑が続いていて野宿場所を探すのにも苦労することもしばしばあります。もちろん大自然の中でのキャンプは旅の醍醐味の一つでもありますが、キャンプサイト以外での野宿では危険もつきものです。人気がない自然の中にテントを張っても、そこは人気がないゆえに恰好の強盗スポットであったり、茂みの中に隠れても夜間のテントは食事を作ったり、ライトを付けたりする事でランタンのように闇に浮かぶ目印にもなってしまいます。

もし、人気があり安全が確認できない場合は逆に人気のある場所で許可をもらいテントを張らせてもらうほうが安全です。警察署、消防署、病院、学校などの公共施設、ガソリンスタンドや夜間警備員のいる施設など日本では考えられことですが、海外では許可をしてくれる場所も多いものです。小さな村でも家の軒先や囲いのある庭にテントを張らせてもらえれば自分以外の人の目もあり、まずは安全です。それが縁で食事を頂いたり、家に招いてもらったりと日常の風景にも出会え、こんな夜がその国一番の思い出になることも少なくありません。

事件、事故が起きてしまった場合を想定して……

⑦緊急連絡先を控えておき、緊急連絡網の確保をしておく

もしも事件、事故が起きた場合の連絡先を控えておきましょう。各国にある日本大使館の所在地、連絡先、助けを呼べる機関や家族の連絡先は控え常に携帯しておくこと。各大使間には各国の大使館を記載した三つ折り程度の冊子があり、もらっておくと便利です。家族やJACCなどサポートしてもらえる場所には目処が立つところまでの行程を伝え、連絡できる状況になれば現在地を小まめに連絡しておきましょう。

前もって事故が起きた場合の取り決めをしておくのも大事です。例えば家族に「無言でも海外から着信があった場合は大使館とJACCに連絡を入れるように」と伝えておくのもいいかもしれません。
 失敗例として、僕はコスタリカで強盗に遭った時に家族に「コスタリカ ゴウトウ ナニモナシ」とSMSで電報的に連絡したところ家族からの連絡は一切なく、後日確認してみると「コスタリカには強盗もなにもなくて平和です」というメッセージと思っていた……と言われて愕然としたのを覚えています。取り決めは大事です!

①で記しているように、携帯電話などの通信手段を確保しておくのも一つの方法です。今やサハラ砂漠の真ん中でラクダに乗りながらでも、サバンナで動物を眺めながらでもほとんどの場所で携帯電話は使えます。僕はアフリカでは現地の携帯電話を持っているが、海外の携帯電話のシステムはSIM(シム)カード方式で、いわゆるプリペードケータイがほとんど。日本のように面倒な登録手続きや引き落としの口座を登録する必要もなく、番号が登録されたSIMカードを購入し、料金がなくなればチャージカード(テレホンカードのような入金カード)を購入すればその場で入金もできます。もちろん国際電話使用可能で携帯会社によってはSkypeや日本の携帯へSMSも使えます。国が変われば携帯会社を変える必要はでてきますが、SIMカードの交換だけで携帯電話本体はそのまま使えますし、SIMカードやチャージカードは小さな村の売店でも売っていてどこでも手に入ります。携帯電話本体が1000円~

SIMカードが100円~250円ほどなのでいつでも連絡ができる安全を買うなら安いのではないでしょうか。

⑧事故が起きた時は些細な事でも報告と発表をすること

事故や事件が起きた場合はどんな小さな事でも報告をし、発表しておくことも大事です。例えば些細な接触事故でも後に重大な怪我に繋がる可能性もありますし、自信のブログやJACCなどの機関で発表することにより再犯防止に繋がります。感染病や伝染病の病気も同様です。自分だけの事故ではなく、後のサイクリストの為に生かせるようにしましょう。

ペダルを踏む前に心得ておきたい事

日本国旗の掲揚や“JAPAN”と標示されている物の装備着用は安全を確かめてから……

大海原を駆け巡る船同様、様々な国を勇ましく自転車で駆け抜けるその姿に“日本国”という示しを表したいもの。僕も東日本大震災の後は日本国旗を自転車に掲げ走っていました。しかし、世界の目では“日本人=金持ち”という考えもまだまだ定着しています。時に“鴨がネギをしょって歩いてきた”という行動にもなりかねないので安全を確かめた上で掲揚、着用をしましょう。

“冒険”と“危険な旅”は似て非なるもの

『自転車で世界を駆け巡る』この言葉、行動は冒険心をかき立て、まだ見ぬ世界へ漕ぎ進めていく原動力でもありますが“冒険”と“危険な旅”とは似て非なるものであることを心得ておきましょう。『冒険』という言葉を辞書で調べると“危険をおかすこと。成功のたしかではないことをあえてすること”とでますが、それをするのが“冒険家”というと、それは違います。冒険家は念入りに調査し、計画を立て、勝算を導きだし、未だ成し遂げられたことのない行跡に挑む者のことを“冒険家”といい、ただ危険な行為に挑むのが冒険家ではありません。生きて帰ることで業績が成し遂げられ、失敗しても生きて帰れば再挑戦できる事を彼らはよく知っています。「勝てない勝負はしない」「帰るまでが遠足」これが鉄則なのです。

最後に敵になるのは“人”であり、最後に助けになるのも“人”である

もちろん安全を確かめて旅路を選び進んでいますが、“危険な国”“危険な地域”と呼ばれてしまう場所も通過しなければならない場合もあります。紛争地帯や退避命令が出ている場所には立ち入らないのはもちろんですが、スリや首閉め強盗、ケチャップ強盗なのどの軽犯罪が多発する場所を通過しなければならない場合はあります。常に警戒を怠らずに“上手い話はない”と疑いの目でいる物事を考えることは大切ですが、そればかりでは人間関係に亀裂が生まれ思わぬ標的にされてしまう場合もあります。どんなに危険と言われる国でも誰しもが犯罪者かというとそれは違います。家族があり、母がいて子がいて細やかな幸せを見つけて暮らしているのはどこの国でも変はりありません。信頼できそうな人には警戒心だけでなく旅の理解も深めてもらい、安全な場所を確立するのも一つの方法です。またそれが縁で先のルートにあたる友人を紹介してもらえたりするのも珍しくありません。「外国人観光客」から「自転車の日本人」になり「私たちの日本人」と呼ばれるようになれば事件や事故に遭う確立はぐっと減ります。どんな国でも信頼関係は最大の助けになること理解しておきましょう。

文責: 出堀良一@エチオピア南部より

ブログ:“自転車”世界一周踏闘記

2013年 JACC新年会

日本全国から、総勢50名が集まり新年会が行われました。
2013年1月12日(土)18時~21時・ホテルクライトン新大阪

1.開会のことば (司会者:中川朝生代表)
2.新年会挨拶 (池本元光代表)
3.乾杯 (稲地一晃会員)
4.2011年フジグローブ賞贈呈式 (古薗祐介会員)
  選考報告 (中西大輔国際部長)

1型糖尿病という大きなハンディを背負いながらも、果敢に世界走破にチャレンジしてきた古薗祐介会員のひたむきな努力と、出会った人々に感謝する友好に寄与されたことが大きな選考理由。

5.世界5大陸を自走する旅 (PEACE RUN プロジェクト 日本縦断Ⅱ高繁勝彦会員)報告

バギーを押しながらランニングで日本を縦断。東日本大震災被災地を訪問。 ブログ

6.内田あやさんのミニコンサート 

高繁勝彦会員の「PEACE RUN 世界五大陸4万キロランニングの旅」サポートソング「My Goal」とサイクリストをイメージした「Brand New Day」を熱唱 動画

7.独創セーリングサイクルによるオーストラリア横断報告 (池本元光代表)

子供のころの夢である自転車冒険を果敢に挑戦し続けてきた池本元光代表の人生最後のチャレンジが「セーリングサイクル」によるナラボー平原の横断だった。 動画

8.ペダリアン紙の思い出とキックボクシングに賭ける熱き想い 松葉京三評議員

現役にこだわる冒険サイクリストである松葉京三評議員。プロキックボクサーとして現役最年長でもあり、まだ現役として次の試合にのぞむペダリアンの闘士である。「ペダリアン新聞は我々のパスポートのようなものだ!」と熱弁。 動画

9.出席者紹介
10.ビンゴゲーム (宇都宮秀俊評議員)
11.閉会のことば (出口隆二事務局長)
12.記念写真撮影

ご来場の皆様有難うございました。来年も開催しますので多くの皆様のご参加をお待ちしております。なお、集合写真の御入り用の方は連絡をください。
jacc.pedalian@gmail.com

関連ページ:内田あや「初歌いはJACC」 高繁勝彦「JACC新年会」

「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」四国~九州

高繁勝彦

35度を超える気温が連日続き、大阪で十分休養できたと思っていたら、大阪を発つ日には大雨洪水警報が……。

その日はやむなく出発を見送った。

8月15日、終戦記念日。大阪から神戸へ。

一緒に走ってくれる仲間がいる。

道中で応援にやってきてくれる仲間もいる。

見知らぬ同士だったけれど、PEACE RUNを通じて新たな仲間になる…何と素晴らしいことだろう。

僕が求めている世界平和というのは、案外こんなところから生まれてくるんじゃないか…そんな風にも思わされる。

「みんながつながる みんなとつながる」

これがPEACE RUNのテーマでもある。

神戸から淡路島経由、いったん仲間の車で四国は香川県高松市に向かう。

バギーMUSASHI号のホイール、ハブの玉押しにガタが出てこの先の走行も心配だ。

部品交換が可能かどうか、スポンサーのタイレルに診てもらって部品を注文してもらうことになる。その日は高松のホテル泊。

翌日、再び車で淡路島岩屋へ。

2009年、初めてバギーを使って旅をしたのが淡路島だった。

あの時は海岸線に沿って一周したが、今回は淡路島を北から南へ縦断の旅。

そして、南淡から四国徳島県小松島へ仲間の車で移動。

四国南岸を東から西へと。

四国でも多くの仲間が僕の到着を待ち構えていてくれた。

まるでお祭り騒ぎのようなランナーの集まり……みこしはないけれど、お祭り以上に盛り上がる仲間たち。

夜は仲間を集めて酒宴を催してくれて、一夜の宿を提供してくれた仲間も……。

国道を走っていると、いきなり誰かが現れる。

「高繁さんですね? 一緒に走らせて下さい!」

ということで世間話をしながら走り始める……。

かと思えば、突然目の前に車が止まり「すいか食べましょうか?」と声をかけられ、道端でまな板と包丁を出してスイカを切ってごちそうしてくれたり……。

四国はお遍路のメッカ。

世界文化遺産に登録するためにあちこちの自治体が観光に力を入れているようだ。

お遍路のルートは歩道もしっかりしていて、トンネル内でもガードレールのついた歩道があった。

トンネルの出入り口では反射素材のついたたすきが無料で使えるようになっていて、出口で返却するというシステム。

ルート上では無料の休憩所もあり、麦茶をふるまってくれたり、クーラーボックスが置いてあって「氷をどうぞ」という貼り紙が貼られていたり…。

野宿する場所もわりと簡単に見つけられるのも、四国を旅する者にとってはありがたいこと。

ただ、海沿いの道は複雑な海岸線が続くリアス式海岸でアップダウンも多く、高知を過ぎてからは特に町も少なくなっていって、コンビニの数も減っていく。決して楽な道のりではない。

豊かな自然…四万十川をはじめ川が美しいのが四国。もちろん海も山も……。

室戸岬や足摺岬…灯台から見る太平洋も素晴らしい。

こういった美しい風景の中だからこそ、純粋に自分自身と向き合いながら、人生という旅を続けられる…。

弘法大師の時代から、お遍路さんたちもきっと同じような思いで旅をしていたことだろう。

道中で何人かのお遍路さんとも出会っていろんな話をした。

旅の手段や目的は違うにせよ、同じ二本の脚で移動する彼ら…同じような旅であるがゆえに、同じように辛いことや苦しいことを体験している。

高知市に入った日に、MUSASHI号のホイールを高松に送り、高知を出発する前日に修理が完了。

PEACE RUN事務局の木村さんに届けていただいた。

高知でもランナー仲間の歓迎を受ける。

桂浜までガイドしながら一緒に走った仲間たち……みんな純粋に走ることを愛するランナーだけど、結局人が大好きな人たちばかり……。

四国では雨もよく降った。

暑いのでレインスーツを着用せず、全身ずぶ濡れになりながら走るのもなかなか楽しいものだった。

9月2日、四国の旅は終わり、愛媛県八幡浜からフェリーで九州は大分県別府に渡る。

別府を出てからしばらくは海沿いの気持ちのいい平坦なルートだったが、津久見から延岡に向かう国道388号線で地獄を見ることに……。

典型的な山越えルート、勾配は10パーセント以上はあるかと思われる急斜面。

交通量の多い国道10号線を避けるための選択だったが、あとから10号線を選択すべきだったと反省。

九十九折りの細い道が続き、人も車も通らない静かな道なのはいいが、あまりにも寂しいルート。

大分から宮崎に入って道は広くなり、そこそこ車も通るようになった。

小さな漁村が点在する海岸線。

日向灘の美しい風景に心癒されながらさらに南へ……。

宮崎から霧島までは内陸を通り、いくつか峠越えはあったが、旅もクライマックス。

多少の山越えももう気にならなかった。

過去に自転車で九州を一周した際にも、九州人の温かさ、人の良さを実感したもの。

今回の旅でも多くの地元の方々の優しさにふれ、本当に感謝感激感動の連続だった。

中でも、宮崎の山口さんはいろんな場面でサポート頂いた。

度重なる伴走、コース上のガイド、ご自宅にも泊めてもらってごちそうにもなり、さんざん甘えさせていただいた。

最終日には、鹿児島の加治木から鹿児島駅までのファイナルランにも付き合ってもらえた。

北海道稚内から96日目、3482.3キロの旅の終わりに僕が感じたのは、やはり日本という国は素晴らしい国だということ。

そして、日本に暮らす人々も素敵な人ばかり……。

嫌な思いをするような経験はほとんどなく、素敵な仲間たちとの出会いを含め、素晴らしい思い出ばかりが頭に残っている。

東日本大震災の被災地に暮らす人々と実際に会ってお話を聞く中で、被災したのは日本という国なのだということを実感。

この国の一部が重い病を患っているのだということをあらためて認識した。

震災の記憶を風化させないためにも、特に被災しなかった人々に、僕自身が見聞きしてきたことを伝えていく必要がある。

「復興」という名前だけのものであってはいけないのだ。

それぞれにできることがあるしできないこともあるだろう。

できることでいい。少しずつでも、時間をかけてこの国を元気にしていくこと。

2013年は「PEACE RUN世界五大陸4万キロランニングの旅」の第二ステージ「PEACE RUN2013 オーストラリア横断+ニュージーランド縦断ランニングの旅」に出る。

長い旅になるだろう。

今まで以上に過酷な旅になるかもしれない。

地平線の果てまでも、一本の道と二本の脚がある限り、僕は走り続ける。

アドヴェンチャー・ランナー高繁勝彦のチャレンジは終わらない…。

PEACE RUN 2012
動画:「PEACE RUN プロモーションビデオ」

「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」第3ステージ東海道

(日本縦断ランニングその2)
高繁勝彦

東京を出てからは暑さも日増しに厳しくなっていった。

その一方で入れ替わり立ち代り必ず誰かが目の前に現れて、伴走してくれたり、差し入れを持参で応援に来てくれたり……。

ただ毎日一人で黙々と走るだけでは単調な時間を送るだけで、誰かが一緒にいてくれることで気を紛らすこともできてありがたいことだった。

インターネット、特にツイッターやfacebook・ブログで日々の状況やリアルタイムでの現地の様子を伝えていたおかげで、つぶさに反応があったりする。

二年前の日本縦断でも似たようなことはいくらかあったが、今回ほどではなかった。

情報の発信量が増えたこともあるし、自分自身のネットワークもどんどん拡張し続けているということだろう。

ひとつ驚かされたのは、東京を出て二日目、神奈川県小田原市に入る日のこと……。

走っていて、突如後方から大きな音量でPEACE RUNのテーマソング、励まし屋が歌う“Go The Distance”が流れてきたのだ。

振り返れば一台の軽トラック、屋根の上に大きな選挙カーのようなスピーカーを積んでいた。

運転していたのは小田原市の市会議員大村さんだった。

福島県相馬市でお世話になった渡辺さんから紹介していただいて、前日までメールでのやり取りがあったが、まさかこんな形で現れてくれるとは予想だにしなかった。

大村さんの話……

「どうやって歓迎の気持ちを表したらいいか……ずっと考えていたんですよ」

ユニークで個性豊かな大村さん、自分と同じ種類の人間と見た。時に突拍子もないことを考え、実行されるのである。

小田原市に到着して小田原城の中にある市の観光課を訪ね、職員の皆さんに歓迎していただき、夜は大村さん宅でお世話になる。

相馬市と小田原市は二宮尊徳という人物が共通して関わっている。

かの偉人が取り持ってくれた縁で大村さんとの出会いがあったことに心から感謝。

東海道の難所の一つ目、箱根峠、小田原から沼津まで約50キロ。峠までの登りが約20キロ、峠からの下りは30キロ。

登りはさすがにきつかった。一号線も道幅が狭くなり歩道もなく路肩もきわめて限られている。

押しているバギーは幅があるので車にとっては迷惑千万だったかもしれない。

勾配自体はさほどきつくはないが一方的に登りが続くという点では精神的にかなりこたえる。

国道一号線最高地点を過ぎて箱根峠をクリアするも、そのあとの下りが実は相当大変なのだ。

自転車ならペダルを踏むことなく快適に下っていけるダウンヒルも、バギーで走るとなると気をつけなければ危険を伴う。

下りで加速すると勝手にバギーが走り出す。バギーが暴走しないように腕で支え、脚で踏ん張りながらスピードをコントロールするのだ。

これは腕だけでなく、肩や背中、腰にまで力が入る。

短いダウンヒルなら問題はないが、30キロも下りが続けばダメージも大きい。

勾配のきつい登りは押し歩きになるので問題ないが、下りは自然とスピードも上がっていくもの。

沼津に到着する頃には太ももの前面や上半身全体の筋肉がパンパンになっていた。

静岡から愛知へ。

東海道ではどこを走ってもコンビニやスーパーがあって、北海道や東北エリアのように食料調達に不都合を感じることもなかった。

大きな街に行けばたいていショッピングモールがあるし、国道沿いにはファストフード店が山ほどある。

その昔、30~40年前はこんなにたくさん店もなかったのだ。

恐らくきっかけは80年代、バブルの勢いに乗って右肩上がりの時代、とにかく社会は消費中心の暮らしを促進してきたのだろう。

お金を出せば何でも手に入る……下手をすればそんな感覚さえ生まれかねない。

便利さに麻痺してしまうと人間は堕落する……そんな風にも感じる。

一号線のバイパスは曲者。

大きな町にさしかかると必ず自動車専用道にぶつかる。

歩行者・サイクリストは迂回路を見つけなければいけなくなる。

国道に平行した県道が迂回路になる場合が多いのだが、何度か道に迷い、その都度メインルートに戻るのに遠回りさせられる。

スマートフォンのGPS機能とグーグルマップを頼りにしても、時折とんでもない道に導かれて自動車専用道にぶちあたったり……。

あるいは、指示された道を行くと通行止めで行き止まりになっていたこともあった。

東海道はやはり旧道がいい。

江戸時代に栄えた宿場町は今もその時代の名残があって、走っていると心も和む。

松並木の続く静かな道、街道沿いには創業数百年といった宿や店が今も残っていたりする。

新しいものを作るばかりではダメなのだ。

古いものとうまく共存しながら歴史を刻むことが今の時代は特に大切なのではないか。

名古屋エリアも交通量が多く、バギーの行く手を阻む歩道橋に悩まされる。

バギーの幅は歩道のスロープよりも広く、片方の後輪をかつぎあげるようにして前進しなければならない。

交差点に出くわすたびにこの試練が待っているのだ。

エレベーターもなく、横断歩道があるところまで迂回するには距離が遠すぎる。

車椅子利用者だったら、一体こんな場面でどうすべきなのか?

四日市から鈴鹿山脈越え、一号線を外れて交通量の少ない県道をたどっていくと急勾配の山越え。

勾配10パーセントを越えるような登坂路……。

ほとんど人も車も通らない、人家や店、自販機さえも全くない道を延々と登り続ける。

四日市をスタートする際に水や食料を十分に買っておかなかったので、途中で不安になった。

土山の手前で国道一号線に合流できた時にはホッとした。

安楽越え、ここは箱根以上に厳しくタフなルートだった。

滋賀から京都へも、小高い丘や峠をいくつも越えていく。

過去に自転車やランニングで走ったことはあっても、その時代の体力とはやはり比べ物にならない。

逢坂峠と三条大橋に向かうだらだら坂、暑さでぶっ倒れそうな中、60キロ近くの距離を走らないといけない。

町が近づくものの何度も道に迷い、地元の人に道を訪ね、グーグルマップで再確認、その繰り返しだ。

アナログ人の自分はどうしてもデジタル人にはなれないということ。

京都市内に入ってようやく関西に戻ってきたという感覚。

歌手の内田あやさんやPEACE RUNの仲間も三条大橋で待ってくれていた。

京都~大阪間でバギーの故障。

後輪のシャフトが破損、ホイールのベアリングは寿命、タイヤも擦り切れてチューブが飛び出し、スポーク切れも同時に起こった。

旅では想定外のいろんなことが起こり得る。

その都度柔軟に、冷静に対応するしかない。

8月半ば、淀川の河川敷は砂漠のようだった。

水道も木陰もコンビニもなく、ただアスファルトの上を黙々と走るだけ……。

午後、灼熱の太陽が頭上でギラギラと輝き、汗はとめどなく流れる。

いくら水分を摂っても摂り足りない。

ボトルの水はぬるくなり、冷たいものを体が要求する。

でも、自販機もコンビニもない。

ここはアメリカの砂漠でもオーストラリアの平原でもないのに……。

そんな葛藤が数時間続き、やむなく途中から国道に戻ることに……。

ようやくコンビニにたどり着いた時にはホッとさせられた。

走っている際によく通行人からたずねられる。

「なぜこんな暑い時期に走っているのか?」

答えに困る…というよりも納得してもらえる答えができないのだ。

「走りたいから走っているんです。季節は関係ありませんよ」

こういった答えに、質問された方は「この人はたぶん普通じゃないんだ」と思うことだろう。

自分がやっていることに自分自身疑問を持つことも決して不思議なことではないのだから……。

大阪は天満橋がゴール。

PEACE RUN事務局長木村さんも伴走にきてくれた。

酷暑のさなかの8月、この日はナイトランになったが、やっと大阪にたどり着いたという喜び。

スタートの北海道から約2500キロを走ったことになる。

ゴールの鹿児島まであと1000キロはあるだろうか。

数日間のオフの間に、バギーMUSASHI号の整備をして、実家にも立ち寄ろう。

仲間が企画してくれたお疲れさん会もある。

二本脚でひたすら進んでいく旅は、気長に、ゆったりまったり進んでいくしかないのだ。

決してあせらない、あわてない、そしてあきらめないこと……。

(つづく)

PEACE RUN 2012
動画:「PEACE RUN プロモーションビデオ」

2012年ペダリアンの集い

 2012年のペダリアンの集いは8月14・15・16日、美しい日本の森とせせらぎのある兵庫県の中央部に位置するグリーンエコー笠形で開催されました。8月14日は日本各地で大雨により交通マヒが起こる中、歌手の内田あやさんを特別ゲストに迎え、全国から会員、会員外の合計21名が集まり、ペダリアンが親睦を深めました。(※武澤勇前支部長から飲み物の差し入れがありました。感謝致します。)

開催地:兵庫県神崎郡神河町

8月14日 内田あやさんミニコンサート

京都からデビュー2年目の歌手内田あやさんがアドベンチャーランナー高繁勝彦会員の「PEACE RUN」応援歌の「My Goal」や、サイクリストの曲「Brand New Day」など熱唱。透き通るような声はさすがプロです。歌詞はすべて本人が作詞しています。

司会のJOBBBインターネットラジオのパーソナリティ馬場哲平さん(左)と内田あやさん(右)
直筆サインと写真のプレゼント付きでCDを販売

「海外と日本の自転車政策の検証」

NPO法人自転車活用推進研究会に所属する藤本芳一会員によるヨーロッパの自転車先進国と日本の自転車政策の違いを報告。日本の後進的な自転車政策は至急見直さなければならない。自転車に乗る人達の質の向上を訴える藤本会員は各地で講演活動を展開中。ルール・マナーを守ること。いい自転車を大切に使うこと。車を使わなくていい距離なら自転車を活用することがよりよい社会の実現につながるのでは。

藤本芳一会員のスライドトークショー

8月15日 「銀の馬車道、生野銀山、越知川名水海道 サイクリング」

明治の初めに当時の高速道路ともいうべき馬車道が生野から姫路にかけて作られ今では国道となっている。緑の濃い国道312号線だ。道幅が狭く、交通量が多いのが少し苦ではあるがゆっくりと瀬戸内海に注ぐ猪篠川を北へとさかのぼる。、標高361mの生野峠を越えた先には戦国時代から太平洋戦争戦前まで栄えた日本を代表する生野銀山がある。生野銀山と生野ダムに立ち寄ったあと、県道367号線の険しい峠を越えて越知川の谷間に。ここは名水街道と呼ばれ名水があちこちでわき出ている。清らかな流れを横目に下り道をどんどんと軽快に進んで行くとグリーンエコー笠形へと戻ってきた。この道は車の交通量が少なく非常に気持ちのいいサイクリングができた。(Anponmanさんも参加)

午前9時、グリーンエコー笠形で記念写真を撮って出発。女性二人も参加。
雨が降りそうで降らず、日差しもなくて快適に峠に到着。
ここが生野銀山です。

「バーベキューとウクレレ、クラッシックギターコンサート」

サイクリングで汗を流した後は、温泉の入浴とバーベキューに冷たい飲み物が最高ですね。そんな楽しいひと時を盛り上げてくれる歌をウクレレの演奏とともに、関東から参加してくれた池谷昭男会員が披露。忘れられないあのメロディーは参加者だけの秘密です。そして食後はスペインのアンダルシアを訪問してきたばかりのakutaさんによるクラッシックギターの演奏。50年近く前から始めたというギターの音は聴く人の心にしみるような忘れえない趣を与えてくれました。素晴らしい夜を有難う!


ウクレレの名手池谷昭男会員。今日のサイクリングでは生まれて初めての山ビルに咬まれたり、
パンクのアクシデントに出会った唯一の人。
ギター歴50年近くなるakutaさんによるクラッシック演奏会。
サイクリングでは3日前に出来上がったばかりの新自転車を初乗りしました。

参加者の皆様たいへんお疲れ様でした。

実行委員長:中川朝生副代表
幹事:出口隆二事務局長

「PEACE RUN2012日本縦断ランニングの旅PART2」第1ステージ北海道+第2ステージ東北~関東

(日本縦断ランニングその1)
高繁勝彦

6月9日早朝、JR稚内駅前をスタート。二度目の日本縦断ランニングの旅が始まった。

昨年アメリカ横断ランニングの旅で使ったバギー(ジョギング用三輪ベビーカー)MUSASHI号が今回も旅のパートナー。

二年前は、北海道宗谷岬から沖縄県波照間島まで日本海・東シナ海沿岸を走る、文字通り最北端から最南端までの縦断であったが、今回は北海道稚内から九州鹿児島まで、オホーツク海と太平洋沿岸を走るルート。その第1ステージが北海道。

6月5日に話はさかのぼる。大阪ナンバからバスで舞鶴フェリーターミナルへ。小樽行のフェリーは二年前に利用したのと同じ新日本海フェリー。約20時間の乗船で小樽へ。小樽で一泊、バスで翌日札幌へ。札幌でも一泊。札幌から稚内へもやはりバスの旅…6時間はあっという間だった。

2年前に走ったルートも一部通っていたので風景を眺めている内に稚内の町へ。道北は気候が大阪辺りと比べて一か月以上遅れているかのように思われた。日中も15度程度しかないのは本州太平洋岸ではまだ早春の気候。

稚内から日本最北端宗谷岬、三度目の訪問。風が冷たく、空も海も灰色に見える。二年前はこの地から日本縦断をスタートしたのだった。まさに原野と呼ぶべき北の大地。店も町も集落もないエリアが延々と何十キロも続く。人も車も見かけることがほとんどない土地を一人黙々と走っている。時折、シカやキツネが道路わきで姿を見せるだけで、生き物の気配はない。

「熊出没注意」の看板にはクマが目撃された日時が記されている。つい数週間前にクマが出てきたエリアもそそくさと走り去っていく。

キャンプをするには寒すぎることもあって、たいてい安い旅館や民宿に泊まっていたが、どこもかしこもインターネットが使えない。自分が持っていたWi-Fiルーターもネットワーク圏外が何日も続いた。ツイッターやfacebookにも書き込みができず、ブログも更新できない状態で、心配してくれていた仲間から電話がかかってきたりもした。

ある古い旅館ではまだダイヤル電話が使われていたり、テレビもチャンネルをガチャガチャ回すタイプのものがあったり……。

「インターネット? 聞いたことはある……。うちにはパソコンもないよ」と宿の女将さん。

デジタルツールといえば、最近携帯電話を使い始めたという宿の主人もいた。

オホーツク沿岸は寒流の影響でこの時期は天気もすぐれず、低温注意報がずっと出ていたようだ。釧路では6月に氷点下を記録した日もあった。

台風が接近していた日、たどり着いた町に宿がなく、やむなく雨の中でのキャンプ。設営場所をあやまったか、テントの下は水浸し、風をまともに受けてフライシートがあおられテントは吹っ飛ばされそうになる。しまいにはテントの中にまで浸水。夜中3時ごろ、テントを撤収。近くの屋根のある建物の中に避難して夜明けを待った。

川や湖、山、海……何もかもが北海道の自然が育んできたもの。そんな中で自分自身も汚れない心で走ることができそうな気がした。

知床半島を横切るルートでは57キロ何もなし。標高490mの根北峠を越えた。根室海峡を経て、オホーツク海から太平洋へ。

その後、晴天が続き、キャンプでテントを張って心地よい眠りについた夜もあった。インターネットは主要都市周辺でしか使えず、ブログの更新も遅れることばかり。デジタルに依存しない日々もある意味自分にとってはよかったのかも知れないが…。

何よりも旅に出てありがたいのは人との出会い。徒歩旅行者もサイクリストもライダーも、出会ったのは皆60歳以上の方が大半。中には仕事を辞めて旅に出てきた若者もいたけれど、高齢者のパワーは健在だ。学生の夏休みが始まる前の時期だったせいもあるのかも知れない。

ある宿では、女将さんと旦那さんが大いに歓迎してくれた。素泊まりだったのに食事も出してくれたし、二連泊しようと申し出たら部屋が満室だったため物置の部屋の荷物を片付け、そうじをして自分に部屋を用意してくれた。

次の日に通過予定の町で、女将さんの娘さん一家が住まわれているということで、ぜひ訪ねるようにと女将さん。ありがたいことにそちらでも手厚いもてなしを受けることになった。

走っている最中に車が停まり、缶コーヒーを差し入れてくれたおじさんがいたり、わざわざ走っている僕の応援をするためにカブに乗って札幌からえりも岬辺りまで7時間かけて200キロあまり走ってきてくれたランナーがいたり……。今回も旅に出てから実際に出会った人もたくさんいるし、ツイッターやfacebook上でもフォローされたりお友達になったりした人たちがいっぱいいる。

世の中には、姑息でずるい人もいるのかも知れないけれど、実は、この世界はいい人であふれているのだ。旅に出てみればそのことがよく分かる。

第2ステージは東北~関東、苫小牧からフェリーで青森県八戸市へ。国道45号線と6号線を使って東京を目指す。特に、昨年の東日本大震災・津波による被災地を訪ね、被災された方々に励ましの言葉を送ること、そして被災地の「今」を自分の目で見ることが自分のミッションだ。1年数か月がたって、被災地は今どうなっているのか……?

青森~岩手~宮城~福島…太平洋沿岸を南に降りていくにつれて、津波の爪痕は生々しいものになっていく。がれきの山、更地になって草がぼうぼうと茂った中に残された建物の土台、道路のわきに巨大な漁船がそのまま放置されていたり…。コンビニもプレハブで営業。仮設住宅は学校のグランドに建てられ、子供たちは遊び場もない状態。

それでも、仮設商店街で商売が再開されはじめ、ストップしていた漁業も再び船が沖に出始めたり、時間とともに変化は表れ出している。

ボランティアの方々とも話す機会があって、現在はかなりボランティアの数も減ってしまっているとのこと。震災の数日後からずっと被災地に住み着いてしまっている人もいるようだ。

津波が来た当日の様子を細かに説明してくれて、鳥肌が立つくらい生々しい話だけど、テレビのニュースでは伝えられなかった様々な事実も知らされた。

特に福島では原発事故のため放射能の警戒区域となった地区の人たちが家を捨てざるを得ない状態になった。

ある方は「津波で家を流されたのならまだあきらめがつく。家も家財道具もすべて手つかずのまま残された状態で家を離れなければいけないなんてあまりにも酷い」という。

自分自身、警戒区域が解除された飯舘村を訪ねてきたが、町はほぼゴーストタウン。自宅に戻ってきた人たちもいないわけではないのだが、町は既に町としての機能を失っていたようだ。

「原発さえなかったら……」

子供たちの健康面も気になる。家族ぐるみで他の地域に出ていく人も多かったため人口の流出はかなり激しいと聞く。

被災された方々の生の声を自分の耳で聴く機会を持つことができたが、被災しなかった我々には何ができるのだろう?原発の問題に人々の関心が集まって、被災地やそこにいる方々のことが半ばかすんでしまっているような現状。まだまだ復興にはお金も時間もかかる。

放射能汚染も確かに恐ろしいのだが、それよりも恐ろしいのは人々の無知と無関心なのかもしれない。

もし時間があれば、ぜひ東北に足を踏み入れてみて欲しい。考えるよりも感じて理解すること…メディアが伝えられない様々な事実がそこにはある。

同じ日本に暮らしながら、被災した人としなかった人がいる。 それは仕方のないことだが、被災した人のために被災しなかった人ができることを常々考えることは必要なのだ。

忘れてはならない3.11。

日本の首都、華やかな東京の街までたどり着いたけれど、酷暑の国道を走りながら思った。地震や津波は必ずまたやってくる。次に対する備えももちろん必要だが、人と人は絶えずつながっている必要があるのだということ。

復興という言葉だけが先走って、肝心の中身がないままになってしまってはどうにもならない。

ここから先は、被災しなかった人々に自分が見てきたものを伝えていく旅になる。

モノやお金で解決できることもあるのかも知れないけれど、本当に我々日本人にとって大切なものを今考えてみるべき時期に我々はいるのだと思う。

(つづく)

動画:「PEACE RUN プロモーションビデオ」

山下晃和 中南米レポート2

※2010年11月より2011年5月まで中南米を走行した山下晃和会員からの地球体験報告です。(2012年7月19日)

オメテペ島にて

「感動のニカラグア」

中米の最貧国は想像以上に美しかった

中米でグァテマラの次に長く滞在した地がニカラグアという国だった。訪れる前は、この国の特徴がイマイチ想像つかなかったが、wellesのロードマップをよく眺めてみると、他の中米諸国が山岳地帯に大きな街があるのに対し、ニカラグアの観光地はほとんど低地にあるということが分かった。荷物を多く積んで、アップダウンが多いと自転車を漕ぐのも大変だが、平地が続くとあれば、道を走るだけでも楽しめるのでは?そんなことを考えながら、アメリカ資本が入って、すっかりアメリカナイズされた国エルサルバドル、一日滞在のみのホンデュラスを経由して、ニカラグアに入国。イミグレーションの女性は非常に無愛想、さらに12USドルの入国税を支払わなくてはならず。最初の印象はとても悪かった。

けれども、僕がここを訪れたころの北半球は真冬だというのに、赤道に近いため気温が高かった。夏が好きな僕にとっては好都合だった。そして、パンアメリカンハイウェイの国道は予想以上に平らで、ところどころダートかと思いきや舗装路も綺麗に敷いてあり、車通りも少なく、道の左右には牛が草を食んでいるというのどかさ。何より、物価が安い!宿の値段は大体200コルドバ(当時740円)以下。1食は、50コルドバ(当時185円)あればお腹一杯になる。ニカラグアと言えば、ニカラグア牛のステーキが有名。また、赤飯に似たガジョ・ピントが美味しい。トルティージャというとうもろこしの皮が主食だったので、ご飯が食べられるのは格別な喜びだった。

赤飯に似たガジョ・ピント(右)
ニカラグア牛

ニカラグア最初に滞在した大きな町はチナンデガ。ここでプロ野球観戦をすることが出来たのだ。インターネットで調べたところ、ちょうど決勝戦をやっていて。偶然にしてはラッキー!チナンデガ・ティグレスとマナグア・ボアーとの初戦。日本では日本シリーズ初戦といった具合だろう。ニカラグアの数少ない娯楽の一つで、異常なまでの盛り上がり。日が長くてナイトゲームのはずが、いつまでたっても明るい。僕は隣のおじさんとすっかり仲良くなって、コーラまでもらった。乾杯!そう、結果は地元の勝利!その夜は、街中が「ティグレス」コール。興奮冷めやらぬ子供達は道路のど真ん中で、夜中まで野球をやっていた。

ニカラグアでプロ野球観戦
ものすごく盛り上がる観客達

二つ目に寄った町はレオン。この名はライオンという意味だ。近くにレオン・ビエホという遺跡があり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。ここに中米で1番大きいキリスト大聖堂(カテドラル)がある。そこには、白いライオンの銅像があるので、写真を撮るとご利益があるとかないとか。ここで泊まったエル・アルベルグという安宿がこれまた居心地が良く、1泊110コルドバ(当時410日本円)のドミトリー。この宿で、バスク人のバックパッカー、ミケルと出会った。僕が自転車で現れた日に、英語で「どこから来たの?凄い自転車だね。」と声を掛けてきた。その夜いろいろと話をして、意気投合。ミケルも大の自転車好きで、ノルウェーにロングツーリングに行ったことがあるほど。「ノルウェーは物価が高いから、毎日スーパーで食材を買って、シングルストーブで料理し、テントを積んでキャンプして旅をしたんだ。」と言って、Facebookでアップしている美しいノルウェーの山岳地帯の写真を見せてくれた。出会った次の日に、ミケルとその彼女ラウラ、フランス人ベンジャミンの4人でマングローブを見に行った。事前にミケルがニカラグア人の男性と交渉して、カヌーを手配してくれていたのでスムーズだった。観光ツアーではなかったので、4人で約120円という安さ。そこで、海亀の赤ちゃんを見たり、障ったり、鳥を見たり、様々な動植物を見ることができた。ニカラグアは自然がいっぱいなのだ。レオンを去る日。ミケルとは、「いつかバスクでサイクリングしよう。」と約束して別れた。

中米最大級のキリスト教のカテドラル(レオン)
旅人の集まる宿、エル・アルベルグ(レオン)

居心地の良いニカラグアだったけれど、以前JACCのサイトや記事でも書いたが首都マナグアで強盗に遭ってしまった。15歳から18歳くらいに見える少年たち7,8人に囲まれ、草を切るための錆びたカマのような棒のような物で頭、顔面を殴打され、血だらけになった。お金、PENTAX・W90のコンパクトデジカメ、SUUNTOの腕時計を盗られたが、財布だけは投げ捨てられ、運よくクレジットカードが残っていた。しかし、病院に行ってレントゲンを撮ったら、案の定、鼻の軟骨が折れていた。そんな事件があったら嫌いになるはずのニカラグアだが、決してそうならなかった。宿のオーナーの友人でタクシー運転手ロベルトさんが親切で、警察、病院、両替、スーパーなど色々と連れて行ってくれた。ニカラグア人は優しい人がほとんどで、悪い人はごく一部の連中なのだ。(※ただし、これからもしニカラグアに行く人が居たら、首都マナグアだけはお気をつけください。)

最後に、1番気に入ったのがオメテペ島。スペインコロニアルの残る古都グラナダからフェリーが出ていて、4,5時間ほど。ニカラグア湖という巨大な湖の上に浮かぶ。ひょっこりひょうたん島のように、二つの火山から成る自然豊かなパラダイス・アイランド。欧米人には人気だが、日本人はほとんど居ない。僕が来島したときはゼロ。一周がおよそ120km、自転車で走るにはちょっと大きすぎるが、1つの火山を周るのであればそれほど大変でもない。石像が有名で、教会や、島の至るところに置いてある。土着宗教の後にキリスト教が入ってきた面影が残っているからだろう。とても神秘的である。島の西端にあるプンタ・ヘスス・マリアでは、オレンジ色に落ち込む美しい夕焼けを見ることができ、火山ツアーは、15USドルから25USドルで現地ガイド付き。お隣の国コスタリカでの火山ツアーは、およそ100USドルはする。コスタリカは「自然の宝庫」のようなプロモーションが上手だが、実はニカラグアの方が安くてオススメである。さらに、モヨガルパというフェリー乗り場近くの町のオスペダヘ・セントラルという宿は一泊2.5ドル(当時210日本円)という破格で、とても快適。セーフティボックスもあったが、オメテペ島自体が犯罪の無い島なのだという。時の流れを忘れるほど、ゆったりした島リズム。夜は美しい星空が広がり、ガジョ・ピントに舌鼓を打った後、ハンモックに揺られて過ごした。

オメテペ島に渡るフェリー
プンタ・ヘスス・マリアから見た夕日 でっかく見えた

パンアメリカハイウェイから少しズレる旅となるが、全ルート自転車走破をしたいと思っている人も、ちょっとだけ足を伸ばして、ぜひ寄ってみてほしい。そこには、なぜか懐かしい光景があり、内戦が長く続いた国の急速な経済成長の過程を垣間見られ、中米でも珍しい動植物を間近に感じることができるだろう。

山下晃和

「PEACE RUN2012日本縦断3,000キロランニングの旅」

(2012年5月29日)

アドヴェンチャー・ランナー 高繁勝彦

「PEACE RUN 2011アメリカ横断ランニングの旅」が終わって間もなく6ヶ月になる。

次なるチャレンジは、2年前に走った日本列島を再度走ってみようと考えている。

前回は日本海・東シナ海に沿って最北端宗谷岬から最南端波照間島まで走ったが、今回は稚内から鹿児島へ、オホーツク海・太平洋沿岸を南下する。

これが終われば、実質日本一周ランニングの旅が完了することになる。

岩手・宮城・福島…東日本大震災の被災地も訪ねよう。

今回のランは被災地復興支援の旅でもある。

自分自身も1キロ走るごとに10円を被災地に送る「RUN×10(ランバイテン)運動」に関わると同時に、応援していただいているサポーターの皆さんには、自分の走り1キロに対して10円を義援金として被災地に寄付する「PEACE RUN×10」への参加を呼びかけていく。

東京・横浜・名古屋・大阪・神戸と日本の主要都市も通過する。

神戸から淡路島経由で四国南岸、徳島・高知・愛媛を抜けて、九州は大分から宮崎・鹿児島へと……。

3000キロあまりの距離になるだろうか。

細かいルートについてはまだ計画中。

コース上にお住まいの方にはぜひ応援に駆けつけて頂ければ幸い。

ツイッターやFacebookで旅の状況を随時報告。

毎日の記録はブログで掲載していく予定である。

今回の旅は「PEACE RUN世界5大陸4万キロランニングの旅」の距離には含まない。

あくまでも番外編として、来年走るオーストラリア横断とニュージーランド縦断のトレーニングも兼ねての走りとなる。

PEACE RUNはまだ始まったばかり。

一本の道と二本の脚がある限り、アドヴェンチャー・ランナー高繁勝彦はまだまだ走り続けます!

2012年5月27日 決起集会  北海道・東北・関東
2012年9月12日 96日目にして約3500キロを走破し、鹿児島にゴール。

「風と大地と」プロジェクト報告会

池本元光(64歳)&パートナー中西大輔(41歳)
独創セーリングサイクル(帆かけ自転車:地上高3m28cm)
豪大陸2907kmナラボー平原横断行

日時:平成24年5月18日(金) 18時30分~20時30分
主催/支援事務局:NPO法人自転車活用推進研究会(東京)
司会進行:小林成基 理事長
場所:大阪市東淀川区東中島4-11-10
   中央復建コンサルタンツ株式会社 2階会議室 TEL. 06-6160-4140
   最寄駅は新大阪駅、東口(南側)から徒歩約4分。

プロジェクト遠征期間:
 関空からアデレード出発 平成24年1月12日
 パースから関空帰着 平成24年2月26日

高繁勝彦レポート

エミコ・シールの新たな旅立ち

※2001年世界一周から緊急帰国以来ガンの闘病生活を続けているエミコ・シール評議員のメルボルンに出発を応援する壮行会が大阪で開催されました。(2012年3月24日)

【エミコ・シールさん壮行会レポート】
高繁勝彦

エミコ・シールさんの壮行会に参加した。

エミコさんはバイクで旅をしていたオーストラリアで今のパートナーのスティーブと出会い、1989年に地球一周自転車旅行をスタート。

77カ国目のパキスタンで癌の告知を受け2001年1月、ゴール目前にして緊急帰国。入院中に入籍。

余命半年と告げられたものの、4年間の闘病生活を経て、持ち前のパワーで2004年末、夢の旅を再開!

2008年9月、世界一周完結への旅立ちを前にガンの再発・転移が襲い、再び治療に専念してきたが、今回、日本における考えられるだけの治療をし尽くしたことで、海外で未承認の薬を求めることに望みをつなごうと、3月末にオーストラリアへと旅立つことになった。

出席者は約60名。

JACCの世界一周経験者をはじめ、自転車関係のみならず様々な分野の方々が全国各地からエミコさんに会うために大阪に集結した。

会場にいたのは皆、エミコさんが旅を続けてきた中で、エミコさんと地球のどこかで出会い、直接的であれ間接的であれ、エミコさんの行動力と彼女の笑顔に癒され励まされてきた方々ばかり。

彼女のそばにはひっきりなしに誰かがやってきて、プレゼントや餞別や花が届けられたり、握手やハグを彼女に求めたり、笑顔で一緒に写真を撮ったり…彼女は慌しくもエネルギッシュに対応していた。

「これが本当に癌と11年も闘い続けてきた女性なのか?」と思わされるほど元気な姿を見せてくれたエミコさん、久々に公の場に姿を見せて参加したみんなから「気」をたくさんもらえただろうか。

逆に彼女から「気」をもらえたように感じていたのは恐らく自分だけではあるまい。

パキスタンで一時は中断した地球一周の旅…。

新たな冒険に旅立つ彼女にエールを贈ろう!

             レポート:高繁勝彦会員 「エミコさんとの出会い」「我以外皆我師」

笑顔でエミコ&スティーブを送り出すJACC

……そして……
2012年3月31日20:50、エミコ&スティーブ・シール夫妻が関西国際空港を出発。オーストラリアに旅立ちました。

ガンを越え、めざせ地平線!!
エミコ・シール 著
鹿砦社


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